応神天皇と雄略天皇は4世紀末から5世紀に存在した人だった

古事記や日本書紀(記紀)に欠かれている古代の天皇は驚くほど長寿で在位期間の長い人がいます。実際にはいつ、どのくらい生きていたのでしょうか?

不思議に思ったので倭の五王の時代。応神天皇から雄略天皇までの在位期間を考えてみました。

日本書紀に見る天皇の在位期間

日本書紀には歴代天皇の即位した年が大歳○○といった形で書かれています。○○には干支が入ります。干支とは甲乙丙丁・・といった十干と子丑寅・・・といった十二支とを組み合わせて年を表現する方法です。甲子(きのえね)で始まって60年で一周りします。漢字と暦が伝わっている国でよく使われます。干支は西暦に直すことができます。神武天皇即位年が紀元前660年の辛酉の年になります。

ところが神武天皇の即位年を紀元前660年の辛酉の年にしてしまったので、天皇の在位年数がとてつもなく長くなってしまいました。現在ではこの数字は現実味がないとされ。即位年が書かれていても実際にはいつごろ即位したのかわかりません。

日本書紀に書かれている天皇の即位年のうち、応神天皇から武烈天皇までを西暦に換算するとこのようになります。

天皇 干支 西暦 在位年数
応神 庚寅 270 41
仁徳 癸酉 313 87
履中 庚子 400  6
反正 丙午 406  6
允恭 壬子 412  42
安康 甲午 454  3
雄略 丁酉 457  23
清寧 庚申 480  5
顕宗 乙丑 485  3
仁賢 戊辰 488  11
武烈 己卯 499  8

応神天皇から武烈天皇といえば、大阪に巨大古墳が造られた時代の天皇です。河内王朝とよぶ人もいます。現実には奈良に宮殿を置いている天皇もいるのでずっと河内(大阪)にいたわけではありません。飛鳥に宮殿を造ったのもこの時代の天皇が始まりです。

古代の天皇は寿命が100年を超えていると書かれていることがあります。在位年数をみても仁徳天皇の87年みたいに非現実的な数字があります。成人後に即位するのが当たり前の時代に在位期間が87年はありえません。

大阪の巨大古墳は5世紀頃造られました。古代中国の歴史書「宋書」に登場する倭の五王の時代とも重なります。倭の五王、つまり応神から雄略天皇までは5世紀頃の人物だといわれます。

でも、おおよその時代は分かったとしても詳しい即位年までは分かっていません。

でもほぼピンポイントで在位年を知ることができる天皇がいます。
応神天皇と雄略天皇です。

応神天皇が即位したのは西暦390年

応神天皇が即位して崩御するまでの期間を書いた「日本書紀の応神記」には百済王の即位した年や百済との交流が書かれています。古代朝鮮の歴史書・三国史記などから百済王が在位した年は分かっています。

日本書紀と百済の資料を比べてみる

日本書紀と三国史記で共通する話題を抜き出してみるとこうなります。

(日本書紀)応神3年 阿花王(阿莘王)が即位。
(三国史記)392年。百済の辰斯王が死去。17代阿莘王が即位。

(日本書紀)応神8年。百済は王子の直支(後の腆支王)を遣わしてきた。先王のように好(よしみ)を通じたいと言ってきた。
(三国史記)397年。百済の阿莘王は倭国と通じる。太子(後の腆支王)は倭国で人質になった。

(日本書紀)応神16年。阿花王(阿莘王)が死去。天皇は直支王(腆支王)を帰国させた。
(三国史記)405年。百済の阿莘王が死去。腆支は100人の倭の兵士に守られて帰国。

他にも共通する出来事はあるのですが、わかりやすいものを選びました。
応神3年が392年。応神8年が397年。応神16年が405年になることがわかります。

応神3年が西暦392年ですから、応神天皇が即位したのは西暦390年だと計算できます。
日本書紀では応神天皇の即位年は庚寅の年。換算すると西暦270年だとされています。でも120年ずらせば390年です。120って中途半端だと思うかもしれませんが、干支の2周分です。

以上のことから応神天皇の在位年に389を足せば西暦が出ることがわかります。

応神元年=西暦390年
応神3年=西暦392年
応神8年=西暦397年
応神16年=西暦405年

三国史記の百済王の即位年と同じですね。

日本書紀には百済の資料が使われていた

日本書紀は8世紀に作られ、三国史記は高麗時代の12世紀に作られました。
でも三国史記を作るために、古い時代の百済の資料が使われたようです。それらの資料は日本にも持ち込まれ日本書紀を作るときの参考になったようです。だから日本書紀と三国史記(とくに百済の部分)は共通する内容があるのです。

応神天皇は4世紀末から5世紀初めの人

さらに仁徳天皇が即位したのは癸酉の年。西暦313年になりますが、120年足せば西暦433年となります。応神天皇は390年から433年の間に大王だった人物だとわかります。実際には応神天皇の死後なかなか次の天皇が決まらなかったので2年空白の年があるので、応神天皇が行きていたのは431年までですが。

となると応神天皇が在位したのは西暦390年から431年まで。

倭の讃は応神天皇

宋書には421年と425年に倭の讃が使者を派遣してきたとあります。
応神天皇の在位期間だった事がわかります。

つまり倭の五王の一人目。讃は応神天皇だったのです。

雄略天皇が即位したのは457年?

もうひとり即位年が計算しやすい天皇が雄略天皇です。
流略天皇の時代から日本書紀と三国史記や百済の資料から共通する話題を拾ってみましょう。

日本書紀と三国史記百済本記の共通点

(日本書紀)雄略天皇即位。この年、大歳丁酉。

丁酉の年は西暦457年。即位したのは457年だとわかります。

(日本書紀)雄略5年。百済の加須利君(蓋鹵王)が、弟の軍君(昆支君)に日本に行くよう命令。軍君は王の女を賜りたいといったので加須利君は孕んだ女を弟に与えた。身ごもった女は加羅島で出産した。そこでこの子を嶋君という。軍君は船に母子を載せて国に送ったこれが武寧王である。
(斯麻王(武寧王)墓碑) 461年。百済の武寧王誕生。

457年を即位年とすると雄略5年は461年。

武寧王の陵墓から出てきた墓碑には「斯麻王」と書かれていました。日本書紀には斯麻と同じ発音の嶋君と書かれており、シマというのが武寧王の本名だとわかります。

(日本書紀)雄略20年。高句麗王が大軍で百済を滅ぼした。それを聞いた天皇は久麻那利(熊津)を汶洲王(文周王)に与え国を復興させた。百済記に曰く、蓋鹵王の乙卯年、狛(こま=高句麗)の大軍来る、国を失う。王及び王后王子ら皆敵の手に没する。
(三国史記)475年。高句麗の長寿王が百済を攻め首都・慰礼城が陥落、蓋鹵王が死亡。文周は熊津で即位して文周王となった。

雄略20年では百済記の引用という形で百済が高句麗に攻められて都が陥落し王族が死んだことを載せています。乙卯年は475年。三国史記と同じ内容です。日本書紀では翌476年に百済の復興を助けたようなことを書いています。雄略天皇が土地を与えたわけではないでしょうが、なんらかの援助はしたのでしょう。

(日本書紀)雄略23年。百済の文斤王(三斤王)が死去。人質として日本に来ていた昆支王の息子・末多に筑紫の兵500を与え帰国させた。末多は東城王として即位した。
(三国史記)479年。三斤王が死去。東城王が即位した。

雄略元年が西暦457なら雄略23年は479年になります。三国史記の三斤王が死去した年と同じです。

倭王武は雄略天皇

日本書紀の雄略天皇の記事には百済に関係する部分がいくつかあり、それらが百済側の資料と一致します。

雄略天皇は在位23年で没しました。雄略天皇の在位した期間は西暦457年から479年です。

宋から倭王武に安東大将軍などの位が与えられたのが479年。まさにギリギリのタイミング。倭王武が雄略天皇だとよく言われますが、時代的にも一致するのです。

史実より120年も伸びている?

以上の結果から次のことが分かります。

応神天皇が在位したのは390~431年。
雄略天皇が在位したのは457~479年。

日本書紀では応神天皇が即位して雄略天皇が没するまでは210年。
でも実際には90年です。120年も延長されていのです。

そうなった理由は初代天皇の即位年を紀元前660年にしたためです。

なぜ即位年が伸ばされているのか?

儒教では辛酉の年には革命が起こり世の中が変わると信じられています。紀元前660年は辛酉の年です。そこで王朝が始まる年を辛酉の年にしたのです。

干支が1サイクルすると60年。これが一元、いわゆる還暦です。儒教の讖緯説では一元(60年)が21回サイクルする1260年を特別な年として考えます。

推古9年から1260年遡ると紀元前660年です。それを考えたのは聖徳太子と蘇我馬子が天皇記を編纂したときだと思われます。

なぜ応神天皇が画期的だったのか?

ではなぜ応神天皇で120年伸ばしたのでしょうか?神功皇后を卑弥呼の時代に設定したからともいえますが。それだけ応神・神功時代は特別だったのです。戦後の歴史学者なら「応神天皇で王朝が変わったから」と言うでしょう。でもそうではありません。

国内での活動が中心だった大和の勢力が、応神時代から海外進出を始める時代です。

日本が海外進出を始めた最初の時代。ということで特別な意味がるのです。

推古時代は新羅への対応に苦慮して遣隋使の派遣に至る時代。欽明天皇の遺言で任那奪還を目指していた当時の大和朝廷としては隨に対して日本の立場を説明する必要があります。倭五王の時代とよく似た状態です。その時代の人々からみても応神時代は画期的な時期ととらえられていたのです。やがてそれは応神天皇=八幡神という武勇の神の信仰に結びつきます。

でも日本書紀の編纂が始まった天武・持統時代は海外への驚異が一段落した時代。応神時代に特別な意味を見出す必要性は推古時代ほどではありません。

そこで応神天皇の即位年を干支二回り分というきりのいい数字で引き伸ばしたのかもしれません。

短くなった天皇の時代を宋書から判断する

応神天皇の即位年は120年も引き伸ばされたことが分かりました。となると応神天皇と雄略天皇の間は記紀で書かれるよりも短いことになります。

今回の計算では応神天皇と雄略天皇の間はわずか26年。

その間に仁徳、履中、反正、允恭、安康と5人の天皇がいたことになります。

しかもその間は百済との交流記事がほとんどないので仁徳~安康天皇がいつになるのかわからないのです。でも宋書には倭が使者を送ったことが書かれています。

宋書にはこのような出来事が書かれています。
讃の死後、弟の珍が使者を送ってきた。
438年。倭王珍を「安東将軍・倭国王」に任命した。
443年。倭王済が宋に使者を送ってきた。「安東将軍・倭国王」に任命した。
451年 倭王済 「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」に追加で任命した。
済の死後、世子(後継ぎ)の興が宋に使者を派遣してきた。
460年。倭国が宋に特産物を献上した。
462年。孝武帝の即位後、倭王興を「安東将軍・倭国王」に任命した。その後、興が死んで弟の武が王になった。

438年の倭王珍は仁徳天皇。仁徳天皇は応神天皇の弟ではありません。時代的には仁徳天皇と考えられます。
443年の倭王済は履中・反正・允恭のいずれか。
興は武の兄なので雄略天皇の兄・安康天皇と考えます。
斉と興は親子なので斉は允恭天皇になります。

日本書紀から判断すると456年に安康天皇が死去したのですが、宋は462年になっても興が生きていると考えています。しかし興が死んで武が王になったことも書いています。孝武帝が453年に即位後、興が生きていると思って任命したけど、興が死んで弟の武が王になったことを462年に知ったのかもしれません。あるいは日本書紀が間違っていて安康天皇は462までは生きていたのかもしれません。

倭の五王の時代の天皇の在位期間

ここまでわかった範囲で天皇の在位期間を考えてみましょう。

讃:応神天皇 390~431
珍:仁徳天皇 433~438~?
履中・反正天皇 ?
済:允恭天皇 443~453
興:安康天皇 454~456~462?
武:雄略天皇 457?~462?~479

仁徳天皇は記紀にかかれているほど長生きはしていないことが分かります。もしかすると応神天皇の在位期間がもう少し短くて、仁徳天皇の在位期間が前倒しになるのかもしれません。履中・反正天皇の在位期間は記紀に書かれている以上に短い。もしかすると兄弟で相続争いをしていたのかもしれません。あるいは崇道天皇(早良親王)、弘文天皇(大友皇子)のように相続争いで敗れた皇子を天皇として書いてるかもしれません。

もちろん日本書紀が正しいとも限りません。それぞれの天皇の在位期間は前後するかもしれません。でもおおよその時期として応神天皇が3世紀末から4世紀の始め。雄略天皇が5世紀後半に在位していたことがわかります。