履中天皇 兄弟の争いを制して仁徳天皇のあとを継いだ大王

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履中天皇は第17代の天皇。
5世紀に存在した大和の大王です。

仁徳天皇の長男であとを継ぎました。しかし即位直前に弟に反乱を起こされて宮殿を焼かれてしまいます。

古代中国の歴史書「宋書」「梁書」にある倭の五王の「讃」にあたる人物ではないかともいわれています。(応神天皇・仁徳天皇が讃と考えらる説もあります)

履中天皇とはどんな人だったのでしょうか。

履中天皇という諡号は奈良時代に付けられたものです。また反正天皇が生きている時代には「天皇」の呼び方はなく「大王:おおきみ」と呼ばれていました。ですがこの記事ではわかりやすくするため「履中天皇」と書きます。

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 履中天皇とは

名 前:去来穂別(いざほわけ)、古事記では「伊邪本和気」
諡 号:反正天皇
和風諡号:
日本書紀:大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけ の みこと)
古事記:大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけ の みこと)
生 年:不明
没 年:履中天皇6年
    
在位期間:履中天皇元年~履中天皇6年
都:磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)
 奈良県桜井市池之内宮地。稚桜神社付近?
父:仁徳天皇(にんとくてんのう) 
母:磐之媛命(いわのひめ の みこと)
皇后:草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ、応神天皇の娘)
 子:中磯皇女(なかしのひめみこ、中蒂姫命)
   
皇妃:黒媛(くろひめ、羽田矢代宿禰か葛城葦田宿禰の女(娘か妹))
 子:磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしは の みこ)
   御馬皇子(みま の みこ)
   青海皇女(あおみ の ひめみこ)

嬪:太姫郎姫(ふとひめ の いらつめ、鯽魚磯別王の女)
嬪:高鶴郎姫(たかつる の いらつめ、鯽魚磯別王の女)

父親は16代仁徳天皇(にんとくてんのう)。
母親は葛城襲津彦(かつらぎ の そつひこ)の娘・磐之媛命(いわのひめ の みこと)。古代豪族の名門・葛城氏の出身です。

兄弟には同母弟の住吉仲皇子、反正天皇。
同母弟の允恭天皇がいます。

即位直前に弟が反乱

仁徳天皇87年1月。父・仁徳天皇が死去。長男のイザホワケ皇子(履中天皇)があとを継ぐことになりました。

履中天皇は豪族・羽田矢代宿禰(はたのやしろ の すくね)の娘・黒媛を妻にしようと考えます。そこで弟のスミノエナカツ皇子を使者として派遣しました。ところがスミノエナカツ皇子は自分がイザホワケ(履中天皇の名前)だと名乗って黒媛と肉体関係をもってしまいます。

黒媛を奪ったことを兄にばれるのを怖れたスミノエナカツ皇子は兄がいる難波宮を襲い焼き払ってしまいました。

(古事記では黒媛の話がなく、いきなりスミノエナカツ皇子が襲ってきた事になってます)

そのころ、難波宮で大嘗祭(天皇が即位して初めて行う新嘗祭のこと)のあとの宴会で大酒を飲んだ履中天皇はすっかり酒によって寝てしまいました。そこにスミノエナカツ皇子が襲ってきます。宮殿が襲われていることを知った阿知直(あちのあたい)たちは酔って寝ている履中天皇を馬に乗せ運び出しました。多遅比野(大阪市羽曳野市)あたりまできたとき目を覚ました履中天皇は家臣に事情を聞いて次の詩を詠みました。

「多遅比野に 寝むと知りせば 立薦も 持ちて来ましもの 寝むと知りせば」
多遅比野で寝ると知っていたら帳(立てて使う風よけ)くらいは持ってきたのに。寝ると知っていたら

さらに、波邇賦坂(大阪府羽曳野市にある坂)をこえるとき難波宮の方を見ると、さらに火が燃えていました。そこで次の歌を詠みます。

「波邇賦坂 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群 妻が家のあたり」
波邇賦坂に私が立って眺めると多くの家が燃えている。妻の家のあたりだ。

大坂山のふもとまできたとき、一人の女性と出会います。その女性は「武器を持った人が大勢いて道を塞いでいるので当岐麻路(大阪府と奈良県の堺にある竹之内峠)を通るのがいいでしょう」と教えられました。

そのときの様子を詠った歌。
「大坂に 遇うや娘子を 道問えば 直には告らず 当岐麻路を告る」

大坂で出会った娘に道を尋ねると真っ直ぐに行けとは言わずに、遠回りになる当岐麻路(現在の竹之内峠)を行けと言われた。

履中天皇一行が進もうと思っていたのは現在の穴虫峠、標高150mほどの峠で奈良へ向かう最短距離。しかし道が塞がれているので竹之内峠を通ることになったのでした。竹之内峠は標高300と険しく距離も倍になってしまいました。

履中天皇一行はようやく石上神宮(奈良県天理市)に逃げ込みました。石上神宮は軍事氏族の物部氏が管理しており大和朝廷の武器庫ともいわれます。

その後、弟のミツハワケ皇子(後の反正天皇)がやってきて履中天皇に会おうとしました。しかし、履中天皇はミツハワケ皇子を疑っていたので会おうとせず、スミノエナカツ皇子を殺すように命令しました。

ミツハワケ皇子はスミノエナカツ皇子を殺害。反乱を鎮圧しました。

天皇として即位

翌月。

履中天皇元年2月、正式に即位しました。
仁徳天皇の次の天皇になるのは決まっていましたが、正式に即位したのは2月でした。

父仁徳天皇が宮をおいた難波ではなく大和国に磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや、奈良県桜井市)を造り政治を行いました。

襲撃された難波宮ではなく、

大臣として蘇我満智(そがの まち)・物部伊莒弗(もののべの いこふつ)・平群木菟(へぐりの つく)・円大使主(つぶらの おおおみ、葛城円ともいいます)を採用しました。

物部、葛城氏は古くからの有力豪族。平群氏は応神天皇のころから頭角を表す軍事氏族。5世紀には蘇我氏がすでに重要な役職についていたことになります。

7月 黒媛と応神天皇の娘・草香幡梭皇女を妃に迎えます。

履中天皇2年。弟のミツハワケ皇子を太子(ひつぎのみこ)にしました。

履中天皇4年。全国に史人(ふみと)と呼ばれる書記官を配置、地方の同行を報告させました。

履中天皇5年。黒媛が神のたたり(病気?)で死去。草香幡梭皇女を皇后にします。

履中天皇6年。蔵官(くらのつかさ、物の出納を管理する役職、大蔵大臣みたいなもの)を設置。任命されたのは燃えている宮殿から助けた阿知直でした。阿知直は東漢氏の祖先になります。

履中天皇6年3月。稚桜宮で履中天皇が死去。
弟のミツハワケ皇子が次の天皇になりました。

日本書紀では享年70歳。
古事記 壬申年(432年)に死去 享年64歳。

履中天皇の陵墓

百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)

別名:上石津ミサンザイ古墳(たでいやまこふん)、石津ヶ丘古墳(いしづがおかこふん)
場所:大阪府堺市西区石津ヶ丘
前方後円墳
墳丘部分の長さは365m。
百舌鳥古墳群にある全国3位の大きさを誇る古墳です。

 

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