仲哀天皇・九州北部を支配下においたのに存在感が薄いのはなぜ

仲哀天皇は第14代の天皇。
4世紀ごろに存在したと思われるヤマト(倭)の大王(おおきみ)です。

ところが倭建命(日本書紀では日本武尊)の息子といいながら妃の神功皇后や息子の応神天皇の影に隠れがちです。妃や息子が目立ちすぎているためいまいち存在感がありません。遠征中に死亡するという不名誉なできごとも存在感が薄い原因の一つでしょう。

しかしその記録を見ると九州北部を支配下に置き、後の大和朝廷の海外遠征のきっかけを作った天皇だったことがわかります。もしかすると倭建命伝説のモデルになったかもしれません。

仲哀天皇はどのような人物だったのか紹介します。

 

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仲哀天皇とは

名 前:足仲彦(たらしなかつひこ)
諡 号:仲哀天皇
和風諡号:足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
生 年:不明
没 年:仲哀9年
    
在位期間:仲哀天皇元年- 仲哀天皇9年
都:いずれも行宮(一時的な滞在地)
角鹿(敦賀)の笥飯宮(けひのみや)
紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)
穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)
 山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社
筑紫橿日宮(つくしのかしいのみや)
 福岡県福岡市東区香椎の香椎宮

父:日本武尊(やまとたけるのみこと)
母:両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)
皇后:神功皇后(じんぐうこうごう)
 子:応神天皇(おうじんてんのう)
   誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)
妃:大中姫命(おおなかひめ)
 子:麛坂皇子(かごさかのみこ)
   忍熊皇子(おしくまのみこ

仲哀天皇の諡号は奈良時代に付けられたもの。また仲哀天皇が生きている時代には「天皇」の呼び方はありません。

ですがこの記事では一般に知られている「仲哀天皇」と書きます。 

足仲彦(後の仲哀天皇)の父親は小碓尊(おうすのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)として知られる伝説的な英雄です。足仲彦が20歳になる前に父が死んだといわれます。
母親は両道入姫命。11代垂仁天皇の皇女です。

足仲彦は容姿端麗で背は1丈。古代中国では1丈は成人男子の背の高さ(約180cm)とされました。成人男子の平均的な高さという意味で1丈と書いたのかもしれませんし、大陸の人並みの身長があるという意味なのかもしれません。少なくとも背の低い人ではなかったのは確かでしょう。

成務48年。叔父の成務天皇には息子がいませんでした。そこで足仲彦(たらしなかつひこ)が太子に選ばれました。祖父・景行天皇には多くの皇子がいましたが、足仲彦は日本武尊の息子ということで後継者に選ばれたのでしょう。

一人目の妃・大中姫

いつの時期かは不明ですが大中姫と結婚しました。大中姫は景行天皇の皇子・彦人大兄命の娘。従妹との結婚になります。

大中姫との間には麛坂皇子(かごさかのみこ、香坂王)と忍熊皇子(おしくまのみこ、忍熊王)が産まれました。

成務60年。成務天皇が崩御。喪があけた後に足仲彦は即位しました。

 

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仲哀天皇の時代

 仲哀元年(太歳壬申)。母を皇太后にしました。
即位年は太歳壬申を機械的に西暦に換算して192年とされます。日本書紀の編纂者もそのように作ってあります。

でも息子の応神天皇は5世紀の人物と考えられます。干支3周り分(180年)ほど古く設定しているようです。

実際には372年(192+180)かそれに近い時期の可能性が高いです。

元年11月。父・日本武尊の陵のまわりの池に白鳥をを飼い、その白鳥を見ながら父を偲ぶことにしたい。と諸国に白鳥を献上させました。父・日本武尊は遠征先で死亡して魂は白鳥になって飛んでいったと信じられていたからです。古代日本では鳥は魂を運ぶ生き物、霊的な力を持つ生き物と考えられていました。そのためこのように信じられたのでしょう。

閏年11月。越国から白鳥4羽が送られてきました。使いのものが宇治川のほとりで休んできたとき蘆髪蒲見別王がやって来て「その白鳥はどこに持っていくのか」と訪ねました。使者は「天皇が父王を偲ぶため飼おうとしている白鳥です」というと。「白鳥と言っても焼いたら黒くなるだろう」といって白鳥を奪っていきました。

仲哀天皇はその報告を聞くと「無礼なやつだ」と怒って蘆髪蒲見別王に兵を送り殺害しました。

蘆髪蒲見別王は仲哀天皇の異母兄ですが母が山代国(京都府)の豪族の娘。天皇になれなかったので弟を妬んでいたのかもしれません。皇子のあいだで皇位争いがあったことを思わせる記録です。

息長帯比売は皇后ではなかった?

仲哀2年1月。息長帯比売(おきながたらしひめ)をキサキにしました。後の神功皇后です。息長帯比売は息長宿禰王の娘。息長宿禰王は9代開化天皇の子孫といわれる王族。近江に拠点をもっていたといわれます。母は葛城高顙媛。新羅から来た天之日矛を祖先に持つという家系です。

古事記や日本書紀では息長帯比売が皇后になっています。この時代に皇后(おおきさき)の地位が確立していたかどうかはわかりません。

しかも血統的には大中姫命の方が天皇家の血が濃いです。大中姫命が父も母も天皇家の血を受け継ぐ高貴な血筋だったのに対し。息長帯比売は昔の天皇の血をひくとはいえ傍流の家系。あるいは古い時代に大王に服従した豪族だったかもしれません。血統を重視するなら大中姫命の方が地位が高かったはずです。

古代日本では血筋が何よりも重視されました。仲哀天皇の子が王位を受け継ぐとしたら大中姫命の息子になるはずです。でも実際に王位継承したのは息長帯比売の息子でした。血筋の弱さを補うためには大きな功績が必要です。そこで神功皇后の三韓征伐のエピソードが作られたのかもしれません。

ただし大中姫命は血筋は良くても有力な豪族とのつながりが希薄です。息長帯比売の背後には近江や丹波の豪族がいたのでそれなりに影響力があったともいえます。

 

各地を視察

仲哀2年2月。先王が住んでいた志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太)を出て敦賀に行き、行宮(かりのみや、行幸先での滞在地になる建物)を建てました。これを笥飯宮(けひのみや、気比神社あたり。福井県敦賀市)といいます。気比は畿内と北陸・日本海航路を結ぶ重要な拠点です。朝鮮半島の任那(伽耶諸国)との交易も敦賀で行っていたかもしれません。

淡路に屯倉を造りました。屯倉(みやけ)とは大和朝廷が置いた直轄地を管理する役所です。

3月。南海道(紀伊半島方面)を視察。このとき妃達を気比に残したまま家臣を連れて行きました。紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)に滞在していたとき。熊襲(九州南部の豪族)が貢ぎ物を拒否したとの報告がきました。そこで仲哀天皇は徳勒津を出発して船で穴門(あなと・山口県下関市)に向かいました。

また敦賀に使者を送って神功皇后を呼び寄せました。遠征が長引きそうだったので妃の一人。おそらく若い方の妃を呼び寄せたのでしょう。既に子供のいる大中姫は残しました。もし天皇に万が一のことがあっても残った皇子の誰かがあとを継ぐことができるからでしょう。

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北九州が支配下に入る

9月。滞在先に仮の宮殿・穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)が完成。仲哀天皇と神功皇后はここで暮らしました。

仲哀8年。天皇が佐波(山口県防府市佐波)に来たとき熊鰐(わに)という人物が出迎えました。熊鰐の船には榊が立てられ、榊の上枝には白銅鏡をかかげ、中枝には十握剣をかけ、下枝には八尺瓊勾玉を吊るしていました。

熊鰐は穴門(山口県下関市)から向津野大済(大分県宇佐郡)を東。名籠屋大済(福岡県戸畑名護屋崎)を西、没利島(六連島)、阿閉島(藍島)、柴島(白島)、逆見の海などの地域を魚や塩を取る場所として献上しました。熊鰐は天皇を案内して山鹿岬から岡浦に入りました。熊鰐は現在の北九州市から宇佐市のあたりを支配する豪族だったようです。後に岡県主になりました。

更に進むと五十迹手(いとて)という者が出迎えました。船には榊に上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝には十握剣がかけられていました。

五十迹手は「八尺瓊勾玉は上手に天下を治めることができるように、白銅鏡は山川海を知ることができるように、十握剣は天下を平定できるように」との願いがあります。と言いました。天皇は喜んで「伊蘇志(いそし)=よくやった」と言いました。そこでこの国を伊蘇国とよぶことになりました。現在、伊都国(福岡県糸島市、福岡市西区あたり)とよぶのは伊蘇が訛ったからです。五十迹手は伊都県主の祖先になりました。県主とは古墳時代の役職、国よりも小さな単位の行政組織(市長のようなものです)。大和の大王に忠誠を誓った地方豪族が任命されることが多かったようです。

この時代は尊い人を出迎えるときに宝を掲げる習慣があったようです。三種の神器といえば皇位継承の証とされる宝物です。でも古墳時代は各地の豪族が三種の神器を首長のシンボルにしていました。とくに九州はその傾向が強かったようです。大和朝廷が日本を統一すると三種の神器を持つのは天皇家だけになります。

8月。筑紫橿日宮(福岡県福岡市東区香椎の香椎宮のあたり)に入りました。

仲哀天皇が下関に来て5、6年。下関から福岡あたりの豪族が仲哀天皇の支配下に入りました。日本書紀には降伏した場面だけ書かれていますが、何年もかかっているところをみると簡単には支配下に入らなかったようです。

仲哀天皇の業績の一部が古事記の倭建命の手柄になった?

景行天皇の時代にも九州に遠征して熊襲を討つ話があります。そのときは九州北部には立ち寄っていません。関東から中国・四国地方まで勢力範囲にした大和も九州攻略は簡単ではなかったようです。

北九州には4世紀頃から小型の前方後円墳ができ始め5~6世紀には盛んに前方後円墳が造られました。北九州は宮崎と共に古くから大和朝廷の影響が見られる地域。仲哀天皇の記事は4世紀頃に大和朝廷が九州北部を支配下に入れたできごとを物語っているのでしょう。

古事記では倭建命(日本武尊)が九州全体を支配下に置いたように書かれています。でも日本書紀では支配下にはいったのは宮崎を中心にした九州南部だけ。北九州はこのとき始めて大和の支配下に入ったのです。おそらくこちらの方が歴史的事実に近いと思われます。仲哀天皇の業績が倭建命物語の一部になってしまったのかもしれません。

神功皇后の神のお告げ

北九州を支配下においた仲哀天皇でしたがここで神功皇后が神がかりました。その神はこう言いました。「熊襲の国は荒れ果てた土地である。戦って手にいれる価値はない。それより海の向こうに金・銀・宝物のある国がある。私を祀ればその国を与えよう」。

そこで仲哀天皇は高い山に登って海を眺めました。でもそのような国は見えません。天皇は「既に祖先がたくさんの神を祀っているのにそのような神は知らない。偽りの神かもしれない」と神のお告げを信じませんでした。

神はまた神功皇后にのり移って「どうして国がないといって信じらないのか?お前はこの国を治められないだろう。しかし今、皇后は身ごもっている。その子が国を治めるだろう」と言いました。

このとき降臨した神は住吉三神。天照大神の言葉を伝えたのだといいます。

天皇はその言葉も信じず熊襲との戦いに挑みます。しかし敗退して帰ってきました。

9年2月。天皇は病気になり翌日には死亡しました。また、熊襲との戦いで矢を受け戦死したともいわれます。戦場で負傷し、帰還後に息を引き取ったのかもしれません。

九州遠征軍の分裂?

記紀では神功皇后が神がかったことになってます。

でも支配下においた九州の豪族から「海の向こうには豊かな国がある」と聞いたのでしょう。伊都国はかつて邪馬壹国連合時代には外交の拠点になっていた場所。当然、畿内の勢力よりも朝鮮半島の情報は多く持っていたはずです。

あるいは九州遠征した大和の人々は九州の人々から「強敵だが倒してもあまり得るもののない九州南部と戦うより、朝鮮半島に進出してお宝(鉄や大陸の文物)を手にしてはどうか」ともちかけらたのかもしれません。

九州の人々はもともと半島と交易を行い、時には遠征をして半島沿岸を荒らしていたようです。しかし大規模な軍を送るほどの力はなかったのでしょう。そこで大和の軍事力を利用して半島で大きな利益を得ようとしたのかもしれません。

それまで丹波ルートを使って大変な苦労をして任那と交易していた大和の人々にとって、うまい話に聞こえたかもしれません。彼らは神功皇后を説得して仲哀天皇に進言したのでしょう。

天皇が遠征中に死亡

ところが仲哀天皇は当初の計画通り熊襲討伐を実行しました。

なにしろ仲哀天皇は熊襲と戦うために準備して遠征してきたのです。しかも熊襲は祖父の代(景行天皇)からの因縁の相手。大軍に海を渡らせる準備もしていません。今さら熊襲討伐を止めて海外遠征はできないでしょう。統治者としては当然の選択です。

しかし熊襲討伐を強行した結果、仲哀天皇は敗退。死亡しました。あるいは海外遠征派が暗殺したのかもしれません。

仲哀天皇は本来なら北九州を支配下においた天皇として記録されるはずでした。

しかしその後の朝鮮半島遠征の業績が人々の印象に残り。海外遠征を拒否した仲哀天皇は存在感の薄い人物になってしまったのでした。仲哀天皇の遠征の業績が古事記の倭建命(日本武尊)の手柄の一部になってしまったのかもしれません。

やがてひきおこされる皇子たちの争い

遠征中の6~7年の間に仲哀天皇と神功皇后の間には皇子が産まれました。日本書紀の年数は確かではない可能性はありますが、少なくとも数年は遠征していたのでしょう。記紀では仲哀天皇の死後、皇子が産まれたことになっていますが。もとより年齢の曖昧な古代ですから、皇子の産まれた時期は問題ではありません。

ともかく遠征中に産まれたことが人々の印象に残っていたのでしょう。その皇子は後に応神天皇となります。

仲哀天皇の死はやがて北九州の豪族を仲間にした海外遠征支持派と畿内に残った人々の勢力争いに発展します。

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反正天皇の陵墓

恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)

別名:岡ミサンザイ古墳(おかみさんざいこふん)
場所:大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁
前方後円墳
墳丘部分の長さは245m。
古市古墳群
5世紀末頃造られたと考えられます。仲哀天皇がいたと思われる時代とはあわないので別の天皇陵ともいわれています。

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