松下常慶は井伊直虎が徳川家に仕官するときに重要な役割を果たしました。武家の出身ですが出家して修験者となり各地を回りました。やがて徳川家康に仕え各地の情報を集める仕事をしていたと言われます。
井伊直政が徳川家に仕官できたのも常慶がいたとも言われます。
松下常慶とはどんな人だったのでしょうか。
松下常慶(まつしたじょうけい)とは
名 前:松下 安綱(まつした やすつな)
法名:常慶(じょうけい)
生 年:永禄元年(1558年)
没 年:寛永元年(1624年)
父:松下連昌
母:松下長尹の娘
妻:落合蔵人の娘
子:重綱、仙誉、昌俊など
松下連昌の三男。
井伊家伝記では松下一族の者だとされます。秋葉山の山伏として各地を回っていました。
遠江で今川家への反乱が多発した頃(遠州忩劇)では、曳馬城主、飯尾氏のし者として川家康と交渉しました。その功績で家臣にとりたてられました。
家康は曳馬を浜松と名前を変えて居城にしたあとも、常慶を山伏の姿で情報収集に当たらせたといいます。南渓和尚とも面識があり、遠江の情勢を知らせていました。
引佐郡の代官となったとも言われますが真偽は不明です。
永禄11年(1588)。徳川家康が遠江に侵攻した際には井伊谷まで案内役を努めました。
常慶の兄・松下源太郎は井伊直親の正室の再婚相手となりました。そのご源太郎は虎松を養子にしました。
南渓和尚は、常慶に虎松が家康に面会できる場面をもてるように頼みました。
天正3年(1575年)。家康が鷹狩に行くことが松下源太郎や南渓和尚に伝えられました。
松下源太郎に付き添われた虎松は徳川家康と面会します。「徳川実記」には徳川家康は虎松と偶然出会ったような書かれ方をしています。常慶や虎松を士官させようとする人々によって準備されてのものでした。
常慶は、その後も徳川家に仕えます。
寛永元年(1624年)。亡くなりました。享年67。
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