西郷隆盛はよく下級武士だったといわれます。大河ドラマ「西郷どん」でも、貧しい生活をしているように描かれます。
事実、西郷家は貧しかったようです。
でも、薩摩全体の士分(藩に家臣と認められた人・いわゆる武士)の中では決して下級とはいえなかったのです。
ここでいう武士とは紋付袴で登城している人だけではありません。城下に住んでる武士だけでもありません。藩から家臣として認められている人。武士全体を意味します。士分といいます。
もちろん西郷家は家老になれる上級の武士ではありません。
でも底辺の武士だったかというとそうでもありません。
ではなぜ西郷家は下級武士と言われてしまうのでしょうか?
薩摩藩の制度と西郷家の台所事情から考えてみましょう。
薩摩藩の身分制度
江戸時代の身分制度は大きく分けて武士と百姓・町人に分かれます。薩摩でも同様です。でも外様大名の薩摩藩は、他の藩に比べると戦国時代の習慣が残っている藩でした。武士と農民の中間のような人達も大勢いました。
薩摩全体では人口の4分の1が武士だったといわれます。
郷士以下の半農半士の人々(足軽)も入れると全体の4割が広い意味での武士だったという記録もあります。
江戸時代の武士は平均で人口の10分の1程度だったといわれます。
薩摩藩は異常に武士の多い藩だったことになります。
それだけに武士全体に十分な石高があたえられず、貧しい生活をおくる武士も多かったようです。
一口に武士と言っても幾つかの身分がありました。薩摩藩の制度を見てみましょう。
上士層
・御一門
島津家とその分家
藩主はもちろん、篤姫の実家もここ。
・一所持、一所持格、寄合、寄合並
島津一族と重臣。家老を出すことの出来る家柄。
赤山靱負、小松帯刀はここ。
城下士
・無格、小番、新番、御小姓与、与力
城下町に住むことの出来る武士。
西郷隆盛、大久保利通らの家は御小姓与。
外城士(郷士)
地方に住んでいる武士。普段は農地を耕し、戦争が起きると戦います。戦国時代に地侍・土豪と呼ばれていた人達が含まれます。苗字帯刀が許されます。
形の上では御小姓与と同等とされますが、格下の扱いをうけることが多かったようです。
郷士の中でも身分の上下はありました。
庄屋になる家もあり。城下士よりも裕福な者がいた一方で、小作人になったり大工や内職で生計をたてる家もいたようです。
他の藩ではこの階級を下士とよぶこともありました。
村に住んでいる武士というだけで郷士になったわけではありません。城下士の身分のまま仕事の関係で村に住んでいる役人は郷士とはいいません。
西郷家は城下士の中では下級
西郷家は確かに城下に住む武士の中では下っ端です。身分は下から2番めといわれるのもそのためです。
でも城下に家と敷地を持ち。殿様の裁量にもよりますが、うまくすれば殿様に近い立場に取り立ててもらうこともできます。
城下士と郷士の関係は、他藩では上士と下士の関係に近いです。
土佐の坂本龍馬などは下士でしたから、坂本龍馬に比べると西郷隆盛の方が身分は上なのです。
西郷家はなぜ貧しかった?
身分が高いと裕福だと思いがちですが、そうとも限りません。
身分だけでみれば西郷家は武士全体では「中の下」です。武士の底辺というわけではありません。
西郷家は城下に住む城下士でしたが、家は貧しかったのです。
下から2番めの御小姓与だから貧しかったのかというとそうではありません。
同じ御小姓与の大久保利通の家は比較的裕福でした。西郷吉之助兄弟も大久保家で食事を分けてもらったことがあるほどです。
武士の間で石高は売買できました。余裕のある家は他の家から石高を買って石高を増やすことが出来たのです。石高があがれば収入も増えます。同じ身分でも裕福さに差がでたのでした。
しかも、西郷家は石高を増やすのに失敗して借金だけが残ってしまいまいました。西郷吉兵衛の時代に藩の規定以上の石高を買って没収されたのです。
吉之助が相続したのは没収されたあとの41石と借金でした。しかも西郷家は大所帯。吉兵衛が亡くなったことで吉兵衛の収入も亡くなり。吉之助が家族を養い、借金を返すことになったのです。吉之助が島で流刑になっている間は、弟の吉次郎も職を失い畑を耕すなどで生活しました。
西郷家が貧しかったのは。
・薩摩藩は武士が多すぎて十分な石高がもらえない。
・借金がある。
・家族が多い。
・島流しになったり解雇されたりして収入が途絶えることがあった。
などの理由があるからなのです。
単に身分が低いから、という単純な理由ではないのですね。
城下士だけが武士ではありません。そんなことを言ったら坂本龍馬は武士でなかったことになります(薩摩と土佐では制度が違いますが)。
でも、物語的には身分の低い人が大成功したことにすればウケます。
だから必要以上に「西郷隆盛は下級武士」と言われるのです。
コメント