斎藤道三は僧侶から、油売り、そして大名に成り上がった人物。戦国時代を代表する下剋上の典型的な人物といわれます。
ところがこの話は江戸時代の小説「美濃国諸旧記」などで作られたイメージでした。現代でも坂口安吾・海音寺潮五郎・司馬遼太郎らの作家が小説にしたのでこのイメージが定着してしまいました。
しかし現在では道三一人で成し遂げたものではなく、親子二代にわたる出世だったという説が有力です。
「美濃国諸旧記」などで描かれる道三の古いイメージではなく、最新の研究による2代にわたる出世物語を紹介します。
斎藤道三 とは
斎藤道三の使った家紋
二頭波(にとうなみ)・二頭立波
名 前:長井規秀→斎藤利政(さいとう としまさ)
別 名:藤原規秀
官 名:山城守
号:道三(どうさん)
あだ名:美濃の蝮(マムシ)
生 年:明応3年(1494年)
没 年:弘治2年4月20日(1556年5月28日)
父:松波庄五郎
母:
正室:小見の方
側室:深芳野ほか
息子: 義龍、孫四郎、喜平次、利堯、利治、長井道利ほか
娘:帰蝶ほか
道三の古いイメージを覆した六角義賢の手紙
斎藤道三の成り上がり物語は西村新左衛門尉とその子・左近大夫(道三)の二代の人生をつなげて一人の物語にした事がわかりました。
近江守護・六角義賢が家臣平井氏にあてた手紙に義龍の父や祖父のことが書かれていたからです。その中から斎藤道三親子に関わる部分を抜き出してまとめるとこうなります。
斎藤義龍の祖父・新左衛門尉は京都妙覚寺の僧侶だった。
西村と名乗っていた。
美濃が混乱した時やってきて長井に仕えた。
やがて長井を名乗った。
斎藤義龍の父・左近大夫(道三)のとき
惣領を殺害、役職を奪い斎藤と名乗った。
義龍は父(道三)や弟を殺害した。
というもの。
かつて斎藤道三の前半生とされた松波庄五郎の人生
明応3年(1494年)山城国乙訓郡西岡(京都市左京区・向日市・長岡京市のあたり)で生まれました。他にも永正元年(1504年)生まれ説などがあります。
祖先は先祖代々北面の武士(上皇の護衛)。
父は松波左近将監基宗
父は事情があって牢人(浪人)になっていました。
11歳のとき京都妙覚寺で僧侶になります。法名は法蓮。
友人の日護が美濃国厚見郡今泉の常在寺の住職になったのをきかけに道三は還俗して松波庄五郎(庄九郎)と名乗ります。
油問屋の奈良屋又兵衛の娘と結婚。油商人になって屋号を山崎家と名乗ります。畿内で商売をしていましたが美濃に行ったとき弟弟子だった日護と再会。その後、たびたび美濃に行くようになりました。日護の兄・長井利隆とも知り合います。
大永年間。庄五郎は美濃で評判になり油屋として成功しました。
ある日。美濃国守護・土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、しょせん商人の技だ。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろう。惜しいことだ」と言われ、商人をやめて槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になりました。
その後。弟弟子の日護(日運と改名)の紹介で美濃守護土岐氏小守護代・長井長弘の家臣にしてもらいます。長弘は利隆の息子です。
庄五郎は功績をあげて美濃国守護の次男・土岐頼芸の信頼を得ます。
長井長弘は家臣の西村家に跡継ぎがいないので庄五郎に家督を継がせました。松波庄五郎は西村勘九郎正利と名乗ります。
六角義賢の書状に登場する西村新左衛門尉は通説の松波庄五郎~西村勘九郎正利に相当する人物のようです。
道三の父?長井新左衛門尉
西村勘九郎と同一人物と思われる西村新左衛門尉は、土岐家中で頭角をあらわし大永年間には長井を名乗ります。
この時点では長井長弘や跡継ぎの景弘が生きているので長井宗家を乗っ取ったわけではありません。長井の分家を継いだか、長井の名字を与えられたのでしょう。
このころ。美濃国守護・土岐家では嫡男の頼武と次男・頼芸の間で家督争いが起こっていました。
享禄3年(1530年)。頼芸派は土岐頼武を越前に追放しました。
実質的に頼芸が美濃国太守とよばれました。
いったんは頼武が家督を継ぎました。
天文2年(1533年)。三条西実隆の日記に長井豊後が病になったとあります。
長井豊後とは長井新左衛門尉のようです。この後、資料などには新左衛門尉は登場しないので死亡したようです。
斎藤道三の人生
長井規秀の時代
天文2年(1533年)。長井(藤原)規秀の名で書状を発行。ころころまでに道三が家督をついでいたと思われます。
天文2年。長井長弘を殺害。(享禄3年説もあり)
斎藤利政の時代
天文7年(1538年)。美濃守護代の斎藤利良が病死。斎藤新九郎利政を名乗ります。
天文8年(1539年)。居城稲葉山城の大改築を行ないました。
天文10年(1541年)。利政が土岐頼芸の弟・頼満を暗殺。
利政と土岐頼芸が対立します。一時は利政が劣勢になりました。
しかし
天文11年(1542年)。斎藤利政は土岐頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子を追放します。利政は事実上の美濃の支配者になりました。
ところが頼芸は尾張の織田信秀の援助を受け美濃守護復帰を目指します。先に追放され越前の朝倉家に逃れていた土岐頼純とともに、美濃に攻めてきました。
頼芸は揖斐北方城を居城にします。
頼純はかつての居城だった革手城を奪い返しました。
加納口の戦い
天文16年(1547年)。織田信秀は稲葉山城に攻めてきました。
しかし利政は籠城戦で対抗、織田軍に大打撃を与えます。
さらに土岐頼純が討ち死にあるいは病死しました。
信秀との戦いは天文13年(1544年)説もあります。
この戦いの後、斎藤家と織田家は和睦します。
利政の娘・帰蝶と信秀の嫡男・吉法師(信長)が結婚することになりました。
天文17年(1548年)。帰蝶を織田信長に嫁がせました。
その後、うつけ者と評判の信長と面会。信長の力量をみとめたといわれます。
その後。織田家の支援を受けていた美濃国内の反対勢力を滅ぼし。
天文21年(1552年)。揖斐北方城にいた頼芸を尾張に追放。
美濃統一を実現します。
天文23年(1554年)。家督を嫡男の斎藤義龍に譲ります。
利政は剃髪して「道三」と名乗りました。
鷺山城で暮らします。
ところが道三は義龍を認めようとせず、正室の子供の孫四郎や喜平次らを高く評価していました。
道三と義龍の関係は険悪になりました。
道三の最後・長良川の戦い
弘治元年(1555年)11月。義龍は弟の孫四郎や喜平次を殺害。道三に使者を送り弟たちを殺害したことを報告しました。
驚いた道三は兵を集め城下に火を放ち逃走。
長良川を越えて大桑城に逃げました。
このとき、斎藤家の家臣団で道三に味方するものはあまりいませんでした。多くが義龍に味方します。土岐家を追い出し戦に明け暮れる道三の強引なやり方に家臣団は不満を持っていたのです。
年が明けて雪が融けるのを待ちました。
弘治2年(1556年)4月。道三と義龍は長良川付近で対戦します。
17500の兵を動員した義龍に対して、道三の兵はわずか2700。
道三の軍は奮闘して初戦は有利に戦いますが、数の劣勢はどうにもなりません。
道三は長井忠左衛門道勝に捕まり、組み合いになりますが。最終的に小牧源太に討ち取られました。
娘婿の織田信長は援軍を派遣していましたが。合戦には間に合いませんでした。
死の直前、遺言を書き織田信長に送ったといわれます。その遺言には美濃を信長に譲ると書かれていました。既に美濃は義龍の支配下にあり意味のないものでしたが、最後まで息子を認めたくなかったのでしょう。
力で得たものは力で奪われる
斎藤道三は下剋上の代表のように思われています。親子二代で自らが仕えた勢力を追い落とし美濃国の支配者になりました。しかし強引なやり方には反感を持つものも多かったようです。最後は家臣の支持をとりつけた息子に敗れました。
彼の遺書にある言葉「力で奪ったものは時を経て、力でもぎ取られる」は道三の人生を象徴する言葉かもしれません。
娘婿に国を譲るのというのは、無能と思っていた息子に負けた悔しさがそうさせたのかもしれません。
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