徳川家康の家臣・平岩親吉(ひらいわ ちかよし)は、徳川十六神将の一人です。
家康と同じ歳で共に育ちました。
親吉は私利私欲がなく家康の信頼が高かったといわれます。
そのため家康は自分の二人の息子の後見役を任したのでしょう。
平岩親吉とはどんな武将だったのでしょう。
平岩親吉とは
天文11年(1542年)。三河国に生まれました。父は松平家家臣、平岩親重。
徳川家康と同じ歳。家康が今川家の人質となったときは同行しました。
初陣は永禄元年(1558年)、16歳のときでした。
家康の三河国統一に貢献しました。
家康の嫡男、信康のもり役となりました。
天正6年(1576年)、家康の母方の伯父水野信元は武田家への内通を疑われます。信長は家康に対して水野信元親子の処刑を命令しました。親吉は親吉の命令で水野信元を三河大樹寺に呼び出し養子の水野信政とともに暗殺しました。
天正7年(1579年)、信康は武田家への内通が疑われ信長から切腹が命じられます。
親吉は自分が身代わりとなって首を差し出す代わりに信康を助けるように求めました。しかし、信長の怒りはとけず、信康は切腹しました。親吉は責任を感じて蟄居してしまいます。
やがて家康から許されて、復帰します。
天正10年(1582年)、織田信長が死亡すると家康は甲斐を支配下におきます。
家康の命令で親吉は甲府城を築城し、甲斐を治めました。
天正13年(1585年)。上田城の真田氏を攻めるために鳥居元忠、大久保忠世と共に出陣しますが真田昌幸のまえに敗退。石川数正の寝返りもあり、真田攻めを諦めて撤退しています。
天正18年(1590年)。小田原征伐に参戦。手柄をたてます。
家康が関東に移動になると、親吉は厩橋3万3千石を与えられました。
関ヶ原の戦いの後、甲斐に戻り甲府6万3千石の城代となります。
家康の9男・徳川義直が甲斐25万石の大名となると幼い義直に代わって甲斐を治めました。
慶長12年(1607年)、義直が尾張藩主になると附家老となり尾張藩の経営にあたりました。
自身も犬山藩主として12万3千石の領地を与えられました。
慶長16年(1611年)、名古屋城で死去。享年70。
親吉は死ぬ間際、家康と豊臣秀頼の二条城での会見に同席したといわれます。
そのとき、毒入りの饅頭を秀頼に進めましたが、加藤清正が代りに食べて帰途亡くなったという噂が立ちました。あくまでも噂です。
親吉には後継者がいなかったので平岩家は断絶しました。
家康の八男仙千代を養子に迎えていましたが、若くして亡くなっています。
平岩家の家臣は尾張藩に召抱えられています。
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