石川数正とはどんな人?なぜ徳川家を裏切ったのか

徳川家康の重臣、石川数正。

家康が竹千代と名乗っていた幼少時代から付き従っていました。今川家の人質になった時もそばで仕えます。築山殿や嫡男・信康とも深いかかわりがありました。

徳川家の重臣でしたが、豊臣秀吉に寝返ってしまいます。

家康が幼いころから仕えた重臣なのに裏切ってしまった数正

いったいどんな武将だったのでしょう。

石川数正(いしかわ かずまさ)とは

名 前:石川 数正(いしかわ かずまさ)
通称・官名:与七郎、伯耆守、出雲守
幼 名:助四郎
法 号:箇三寺
生 年:年(1679年)
没 年:年月日(1703年)
父:石川康正
母:松平重吉の娘
子:康長、康勝、康次

幼いころの徳川家康に仕え、外交、政治、軍事の面で家康を支えました。

天文2年(1533年)。三河国、石川康正の子として生まれました。
石川家は松平家の家臣でした。

数正は徳川家康の10歳年上。家康が竹千代と名乗り、今川家に人質になっていたころから仕えていました。

永禄3年(1560年)今川義元が桶狭間の戦いで討死しました。すると松平元康(徳川家康)は岡崎城に入り独立します。家康が織田家と同盟を結ぶと今川氏真は激怒して人質として今川家にいた元康の息子・信康と妻・築山殿を殺そうとします。そのとき数正は今川氏真と交渉役を務めました。今川家にいた信康と築山殿を取り戻すことに成功しました。

永禄4年(1561年)、尾張国で石ヶ瀬川の戦いが起こります。織田方の水野信元と今川家に味方する松平元康が争いになりました。その戦で数正は先陣を勤め活躍をしました。

永禄5年(1562年)。織田信長と交渉して松平家と織田家の同盟に貢献します。

永禄6年(1562年)。三河一向一揆が起こりました。父・石川康正は一揆側に参加しますが、数正は改宗して家康のもとに残りました。一揆を鎮めたあと、教正は家老に取り立てられました。

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信康の後見人になる

家康の息子、信康が元服すると後見人になります。
永禄12年(1569年)、西三河を任されました。

元亀元年(1570)姉川の戦い、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)長篠の戦いなどに出陣して手柄を立てました。

天正7年(1579年)信康が家康に切腹を命じられます。主のいなくなった岡崎城には数正が城代に任命されました。

天正10年(1582年)織田信長が死亡します。その後、羽柴秀吉が力をつけてくると秀吉との交渉を任されました。

天正13年(1585年)、秀吉と家康が争った小牧・長久手の戦いでは秀吉との和睦を勧めたたともいわれます。

しかし天正13年11月。数正は家康を裏切り、秀吉の元へ逃亡します。

数正がなぜ裏切ったのか現在でも理由は分かっていません。

もともと武闘派の多い三河武士の中では冷静に考えるタイプの数正は意見が合わないことが多かったという説もあります。
岡崎時代から付き従っていた数正は家康の嫡男・信康の後見人になるなど信康や築山殿とは縁がありました。信康が自害に追い込まれるなど岡崎時代から従っていた数正には不満が残っていたのかもしれません。

他にも様々な原因が考えられます。

豊臣家への寝返り

数正は徳川家の重臣中の重臣であり、兵力、組織など軍事機密を知る立場にありました。それが秀吉に知られてしまうことになります。

当時、上田城をめぐって真田と戦っていましたが戦いを中止して引き上げざる原因の一つになったともいわれます。

結局、徳川家は軍の組織を武田流に変更することになりました。

数正は河内国8万5千石の大名として取り立てられました。

天正18年(1590年)小田原北条氏の滅亡後、徳川家康が関東に異動になると、数正は信濃松本に異動。10万石の大名となりました。松本では街道を整備して城下町の発展に尽くしてます。

文禄2年(1593年)亡くなります。享年61。

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数正亡き後の石川家

石川家は嫡男の康長があとを継ぎました。

関ヶ原の戦いでは、徳川家康に味方します。

石田三成に味方した真田昌幸の支配する小県郡冠者ヶ嶽城を攻撃しますが敗退。

最終的には家康の側が勝ったので領地は安泰でした。

しかし慶長18年(1613年)。改易され、豊後国に流されてしまいます。
知行を隠したとの理由でした。石川家が一度裏切ったことに対する幕府の不審があったともいいます。

寛永19年(1642年)、亡くなります。享年89。

子孫は徳川の世も生き延びましたが裏切り者呼ばわれすることを嫌って石川の姓を隠したといいます。

コメント

  1. かつこ より:

    興味深い記事をありがとうございました。
    私は石川数正の子孫(四男定政)で自分の祖先のことを調べていてココに辿り着きました。
    石川姓を捨てたのは長男次男三男だけのようです。四男定政は高遠藩の保科正之様にお仕えし、そのまま幕末を会津藩で迎えています。450石ほどの禄を頂いておりましたが外様扱いのため会津戦争の際は戦いに出ることが出来ず、戦死者を弔う役を仰せつかりました。そのため、戦争が終わったあと「お上に刃を向けたものを弔った者が一緒にいれば会津の方々に迷惑をかける」と山形県の酒田に逃げたようです。ご維新後、容保様が内密で訪問されたと聞いております。
    それよりもびっくりしたのが、50年ほど前、松本城改修工事の落成式のようなイベントがあった時、突然祖父に城主一族として招待状が届いたことです。明治からだいぶ経つ昭和の時代になっているのに、松本城の調査能力半端無いと驚きました。
    長々とつまらない話を失礼しました。
    歴史ファンなので、興味深い記事を楽しみにしております。

  2. 文也 より:

    かつこ様。なんと、ご子孫の方から言葉をいただけるとは光栄です。このような記事でも役に立てたら嬉しいです。石川家でも名を受け継いだ子供板と聞き大変興味深く感じました。家族の方が松本城を作った殿様の子孫として招かれたということですが、凄いことですよ。あらためて歴史の面白さ。大切さを知りました。大変興味深いお話しありがとうございます。