礒貝十郎左衛門は吉良邸に討ち入った赤穂四十七士の一人です。美青年だったという話が伝わっており、浅野内匠頭のお気に入りの小姓でした。
匠頭切腹後、すぐに仇討ちを主張した一人です。赤穂浪士のなかでも最も過激な報復を主張するグループの一員で、独自に仇討ちを狙います。
しかしやがて大石内蔵助の思いを知り彼らとともに討ち入り悲願達成しました。
礒貝十郎左衛門とはどんな人だったのでしょうか。
礒貝 十郎左衛門 正久とは
生年:延宝7年(1679年)
没年:元禄6年2月4日(1703年)
名前:礒貝 正久(いそがい まさひさ)
通称:十郎左衛門(じゅうろうざえもん)
父:磯貝正次
旗本・松平隼人正に仕えていたものの断絶したため浪人になりました。
母:貞柳尼
父が浪人になったあと、京の愛宕山教学院の稚児小姓になりました。
赤穂藩浅野内匠頭に仕える
14歳のとき、父と親しかった赤穂藩士・堀部安兵衛の紹介で、浅野内匠頭の小姓となります。このとき面接したのが片岡源五右衛門でした。浅野長矩(内匠頭)の小姓として仕えます。正久は美形で頭がよかったため内匠頭に気に入られたといいます。
能や太鼓が得意でしたが、内匠頭が芸事を嫌いだったのでやめました。でも密かに琴は続けていたようです。武芸や学問を勉強し内匠頭も正久の優秀さを認めました。物頭側用人(150石)に出世します。
元禄14年3月14日(1701年)、正久は浅野内匠頭にお供して江戸城にいました。城内で内匠頭の仕事が終わるのを待っていると内匠頭が刃傷事件を起こしたと伝わります。浅野内匠頭が江戸城で吉良上野介に切りかかったのです。内匠頭はその日の夕方に切腹しました。
内匠頭は正久と側用人・片岡高房に大して「このたびのこと、かねてより知らせおくべきであった」と遺言を残しました。
正久は片岡高房とともに内匠頭の遺体を引き取り、泉岳寺に埋葬します。このときもとどり(髪を頭の上に集めて束ねた部分)を切って仇討ちを誓いました。
浅野内匠頭切腹後の活動
その後、正久は高房とともに赤穂へ行きます。筆頭家老・大石内蔵助に会って仇討ちするように訴えます。でも内蔵助はお家の再興を第一に考えていたのでその時は賛成してもらえませんでした。赤穂城内では正久のことを「稚児あがりの士」といってバカにする風潮がありました。結局、意見は通りませんでした。正久はお家最高りも仇討ちだと考えていたので、内蔵助の主張するお家最高の連判状には署名しませんでした。
失望した正久は江戸にもどります。江戸の赤穂藩邸に使える者には堀部安兵衛ら仇討ちを主張する人たちもいました。しかし正久は彼らとも考えは違っていました。正久はさらに過激な仇討ちを主張していたのです。
正久が望んでいたのは主君が撃たれたから仇討ちするという武士の理屈ではなかったかもしれません。親しい人が殺されらから敵を討つという。報復に近いものを感じます。浅野内匠頭の間近で仕えていたがゆえんの純粋すぎる想いでしょうか。
結局、正久とともに仇討ちを狙っていたのは片岡源五右衛門と田中貞四郎の三人だけでした。正久は内藤十郎左衛門と名前を変え、酒屋を営みながら独自に仇討ちの機会を狙いました。しかしその機会をえられぬまま時がすぎていきました。
元禄15年3月(1702年)。江戸に来た吉田兼亮に説得され、内蔵助の本当の考えを知ります。そして他の仲間とともに仇討ちすることにしたのでした。
吉良邸討ち入りとその後
12月15日未明。大石内蔵助を中心に47人の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りました。正久は大石主税を中心とする裏門隊に所属しました。90cmの刀や手槍を武器に屋敷に突入します。屋敷内は暗かったですが、このとき正久がひらめきます。正久は台所役を脅してろうそくを出させます。ろうそくで各部屋を照らして探しやすいようにしたのでした。
赤穂浪士は吉良上野介を討ち果たしました。泉岳寺に向かう途中。正久の家が途中にあったので大石内蔵助から病の母を見舞うように勧められましたが、正久は断りました。
泉岳寺で浅野内匠頭の墓前で報告した後。幕府によって細川綱利の屋敷に預けられました。
元禄16年2月4日(1703年)。幕府の命令で切腹します。享年25。
芸事が得意で最後まで持っていた琴のツメを切腹時につかったといいます。
四十八人目の忠臣 (集英社文庫) | ||||
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