佐伯真魚(さえき まお)、弘法大師空海の出生の秘密と上京するまで

佐伯真魚(さえき まお)とは弘法大師空海の出家する前の名前。

讃岐国多度郡(香川県)の豪族の子として生まれました。父・佐伯田公は多度郡少領。つまりを多度郡を治める領主のような人物です。佐伯一族は仏教に関心の高い一族でした。自ら寺を作ったりもしました。

親戚には伊予親王の教育係を勤めた阿刀宿禰大足がいます。阿刀氏は学者の家系。空海は幼い頃から頭がよかったと言われます。もしかすると学者としての血が流れているのかもしれません。

空海は確かに天才的な人物です。しかし突然現れた超人ではなく、空海を生み出す下地があったといえます。

この記事では超人的な空海ではなく、佐伯真魚という一人の人間が出家するまでを紹介します。

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 弘法大師空海とは

名 前:空海(くうかい)
おくり名:弘法大師(こうぼうだいし)
幼 名:佐伯真魚(さえき まお)
生 年:宝亀5年(774年)
没 年:承和2年3月21日(835年)
出身地:讃岐国多度郡(さぬきのくに たどのこおり)
    (香川県善通寺市)

父:佐伯田公(さえき たぎみ)
  一般には佐伯善通(さえき よしみち)
母:阿刀(あと)氏の娘・阿古屋(あこや)とも伝わります。
  一般には玉依御前(たまよりごぜん)

兄弟:鈴伎麻呂、酒麻呂、魚主

空海の一族は有力豪族

父は讃岐の豪族佐伯氏

空海は宝亀5年(774年)、讃岐国(香川県)で生まれました。

父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)といいます。名字は佐伯(さえき)、直(あたい)は朝廷から与えられた姓(かばね)。

佐伯田公の官職は多度郡少領。つまり多度郡を治める役人のトップ。市長のようなものです。少領は中央から派遣された役人ではなく、地方にいた豪族がなることが多かったようです。

一般には善通(よしみち)として知られています。これは四国霊場75番札所の善通寺が父の名前からつけた名前だと言われているためです。

讃岐佐伯氏は地方の豪族でしたが、かなりの経済力をもった有力豪族だと考えられます。

母は近畿の有力一族、阿刀氏

母は阿刀(あと)氏の娘。名前は阿古屋(あこや)だったともいわれます。

阿刀氏は物部氏から分かれた一族だといわれます。阿刀氏は河内国(大阪府)を本拠地にして一族は摂津国、和泉国(いずれも大阪府)に住んでいました。平安京遷都で京に移り住みました。

朝廷が作った八色の姓(やくさのかばね)のうち3番めに偉い宿禰(すくね)の姓をもつ名門。朝廷に仕える知識人の家系です。佐伯氏よりも格式の高い家柄です。

一族には桓武天皇の皇子・伊予親王の侍講(教育係)を勤めた阿刀宿禰大足がいます。阿刀大足阿は阿古屋の兄または父だともいわれます。一説には佐伯直田の兄弟で阿刀家の婿養子になったともいわれます。

現在、空海の母の実家跡には仏母院(香川県多度津町)があります。この地域を治めていた佐伯氏が学問の師として畿内から招いたのが阿刀氏だったのかもしれません。佐伯氏と阿刀氏は婚姻によって強く結ばれていたようです。

佐伯氏は空海以前にも仏教を信仰していた

空海の産まれた地だといわれる善通寺からは、法隆寺式の白鳳時代の瓦が出土しました。また善通寺には奈良時代の仏像の一部が残されています。

佐伯氏は空海の誕生以前から領内に善通寺を作って仏教を信仰していたようです。お寺を作るのはかなりの経済力が必要です。ここからも佐伯氏が有力な一族だったことがわかります。お寺があったのは現在の善通寺の東院と呼ばれるエリア。佐伯家の邸宅があったのは西院(誕生院)のエリアです。

地域の有力者で高い経済力を持つ佐伯氏と、中央で知識人としての地位を固めている阿刀氏。両方が合わさって空海が生まれたのです。

若いころの空海

空海は幼い頃から数々の伝説がある人物です。

真魚が産まれた頃にはすでにお寺があり佐伯氏は仏教を信仰していました。

母方の阿刀一族からも何人もの高僧が誕生しており一族はもともと仏教に熱心だったようです。

仏教に熱心な環境で育った真魚も自然に仏教に親しんだのでしょう。

真魚は幼い頃から言語の発達が早く、記憶力がよかったといいます。

延暦5年(786年)。13歳の真魚は讃岐の国学に通い始めました。国学とは役人の子弟が通う学校です。讃岐の国学生の定員は30人。地方役人の子は地方に作られた学校に通って儒教や律令などの法律を学びました。

入学して2年。地方の学校のレベルでは満足できなくなりました。

中央で役人を目指す

父の佐伯田公は頭のいい真魚をなんとか中央の役人にしようと考えたようです。

あるいは真魚を見込んだ阿刀大足から話をもちかけたのかもしれません。真魚の母方の叔父は学者として名高い阿刀宿禰大足。佐伯田公も真魚を中央の役人にしようとその気になったのでしょう。

延暦7年(788年)。15歳の時。平城京(奈良県奈良市)に上京しました。

真魚は佐伯院で暮らしはじめました。佐伯院は大和国(奈良県)佐伯宿禰氏の佐伯今毛人が建てた寺です。

中央の佐伯宿禰は地方の佐伯直を束ねる一族。讃岐佐伯氏とは直接血縁関係はありません。主従関係のようなものでした。その縁で宿泊することになったのでしょう。

真魚が寄宿していた佐伯院の近くには大安寺がありました。大安寺は中国大陸、朝鮮半島、インドからも僧が来る国際的な寺でした。大安寺は隋・唐への留学僧が多い寺でした。真魚はしばしば大安寺にも出入りし、国際色豊かな仏教に触れたようです。

784年に桓武天皇の命令で都は山背国の長岡京(京都府長岡京市)に移転しました。しかし長岡京の建設工事は789年ごろまでまだ続いており、真魚が平城京に来た頃は都としての機能はまだ残っていました。

叔父の阿刀大足は桓武天皇の三男・伊予親王の侍講(家庭教師)となり、長岡京で暮らすことになりました。

長岡京で受験勉強

延暦8年(789年)。真魚も阿刀大足に付き従い長岡京の阿刀家に世話になり大学寮に入るための受験勉強をはじめました。大足から漢籍(漢字で書かれた書籍)を学びました。

既に国学で基礎的な知識を身に着けていた真魚は大学で習うであろう高度な漢学を学びました。阿刀大足は皇子の教育を任されるほどの人物。

日本で一流の知識人の教えを受けたのです。

16歳の真魚が漢字の書き取りの練習をした記録が残っています。のちに日本三筆のひとりといわれ日本最高クラスの書道家といわれる空海。その裏には才能だけでなく若い頃の努力があったのです。

真魚が漢字の練習のお手本にした書には古代中国の著名人の書いたものもあります。そのような貴重な書物は阿刀大足がいたからこそ目にすることができたのでしょう。

真魚の才能に惚れ込んだ阿刀大足はできるだけの教育を受けさせたに違いありません。

大学で役人を目指すが

延暦10年(791年)。18歳。都の大学寮明経科に進学します。大学寮は当時の日本で最高の学校。地方役人の息子は地方に作られた学校に入りますが、都の学校に入るは異例です。

明法科は律令国家の法律を学び国の行政を行う役人を育てるところです。定員は300人でした。

入学資格は13~16歳。地方の国学に通ったあと受験勉強していた真魚は18歳になっていました。原則として身分にも規則はありました。しかし希望があれば入学は許されていました。真魚には阿刀大足の助けがあったのでしょう。無事入学することが出来たようです。

真魚は大学で儒教や中国の古典、歴史を学びます。25歳までに試験に合格すれば中央で役人になることが出来ます。

大学での授業は書物に書かれた意味を研究するのではなく、一言一字間違いなく暗記して、意味を理解するものです。暗記重視の教育でした。

試験も漢籍を丸暗記し、暗唱できたものが合格します。高い暗記力が必要とされる試験でした。

真魚は後にこのころは睡魔と戦いながら猛勉強したと回想しています。

仏教の修行に目覚める

大学寮に入った真魚でしたが既に高い漢学の知識を持っていた真魚には大学の授業は物足りなく、国学・大学寮で習った儒教にも違和感を覚えたようです。

真魚はもともと高い才能を持ち地方の学校でも持て余すほどの人物でした。さらに一流の知識人の教えを受けさらに高い知識を身に着けていました。

そんな真魚にとって儒教や漢字の書物を丸暗記して意味を理解するだけの授業は物足りなかったのかもしれません。

阿刀大足は真魚を国の役人にするため熱心に教育しました。しかしその熱意が仇になってしまったかのかもしれません。

また地方で育った真魚には都の貴族の子弟が出世のためだけに資格を取るという雰囲気に馴染めなかったともいいます。

また幼いころから親しんだ仏教が捨てきれなかったのでしょうか。

19歳をすぎたころから真魚はしだいに大学寮の授業にでなくなり、山に入って山岳僧の修行に参加するようになりました。

役人になることよりも仏教を目指すようになったのです。

続きはこちら
空海が仏教に目覚めて唐に渡るまで

コメント

  1. 山部 忠良 より:

    興味津々の内容でした。

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