松永久秀が織田信長とともに足利義昭の上洛作戦を成功させました。
そして三好三人衆との戦いを続けました。ところが足利義昭との関係が悪化し、三好三人衆と共闘を選びます。
しかし織田信長との戦いに敗れ織田信長の配下になりました。
敵と見方が頻繁に入れ替わる難しい時代。久秀がどのような行動をとったのか。足利義昭上洛から、織田信長との戦いに敗れ配下になるまでを紹介します。
足利義昭幕府を支える松永久秀
永禄11年(1568年)10月18日。足利義昭は征夷大将軍になりました。
松永久秀は織田信長と協力して足利義昭を将軍につけることに成功しました。
久秀は大和国を安堵されます。久秀とともに戦った三好義継は飯盛山城(大阪府大東市・四條畷市)を与えられました。
織田信長と足利義昭の援軍を得て、信貴山城も奪い返します。
12月24日。岐阜に帰国した信長に挨拶するため、久秀は贈り物を用意して岐阜に向かいました。
永禄12年(1569年)1月5日。信長と久秀がいないすきを狙って、三好三人衆は義昭のいる本圀寺を襲撃しました。義昭を護る幕臣たちの働きで三好勢を撃退しました。
1月6日には三好義継が救援に向かいました。知らせを聞いた久秀と信長も10日に上洛しました。
久秀たちが上洛したときにはすでに三好三人衆は撤退していました。義昭は三好三人衆を討てとの命令を毛利元就に出します。その命令書を発行したのは松永久秀でした。
2月から3月にかけて。義昭は、三好勢の拠点がある摂津・河内・和泉に派兵。松永久秀も派兵に協力。家臣の竹内秀勝・結城忠正らを派遣しました。
その後は筒井順慶や三好三人衆に奪われた大和国内の領土を取り返して家臣に与え。領国経営を進めました。
永禄13年(1570年)正月12日。久秀は若江城(大阪府東大阪市)の三好義継のもとに新年の挨拶に行きました。義継を三好宗家の当主と考え礼は尽くしているのです。
織田信長が全国の大名に上洛命令を出しました。
2月15日。久秀親子は義継とともに上洛しました。
このとき淡路に援軍を送り三好三人衆の上洛を阻止しています。
ところが久秀が上洛した隙きに井戸良弘が多聞山城を襲撃。怒った久秀は井戸城を攻撃して落城させました。
久秀は幕府の仕事もこなさなければいけません。大和の領国経営はなかなか安定しません。それでも多聞山城下に市を建設したり、寺院の領地を武家に割り振り、武家による大和国支配を進めていきました。
野田・福島の戦い
元亀元年(1570年)6月。四国に落ち延びていた三好三人衆は堺に上陸。野田・福島(大阪府福島区)に陣取りました。三人衆には三好康長・細川信良・一色(斎藤)義龍・雑賀孫市・さらには前関白・近衛前久らが合流。筒井順慶も奈良で活動を活発にしていました。
8月。松永久秀は高安(大阪府八尾市)方面に出陣。反義昭勢力と戦いました。
9月8日。松永久秀と三好義継は、野田福島に近い海老江を攻略。
9月12日。足利義昭・織田信長が合流しました。ところが三好三人衆側に大坂本願寺が参戦。
さらには浅井・朝倉が近江で挙兵。反義昭勢力は苦しい戦いを強いられます。義昭・信長は京都に撤退。久秀は信貴山城、義継は若江城に戻り三好三人衆と戦いました。
10月末に正親町天皇は和睦を命じます。各方面で和睦交渉が進められました。
11月。松永久秀は三好三人衆・阿波三好家側と和睦交渉を開始。久秀の娘を信長の養女として三好長治に嫁がせることになりました。その準備ができるまではお互いに人質を交換しました。
足利義昭と反義昭勢力の和睦が成立しました。
この和睦交渉はもうひとつ大きな意味がありました。松永久秀・三好義継と三好三人衆・阿波三好家が和睦。三好家は再び三好義継の下でまとまったのです。
再び三好勢力の一員となった久秀
足利義昭の裏切り
久秀と三人衆の和睦は新たな火種にもなりました。もともと三好三人衆と畠山・和田勢は畿内の領地をめぐて争っていました。領土問題で争っている和田惟政・畠山秋高はどうしても三好三人衆を認められません。三好対和田・畠山との対立が再燃します。
それに足利義昭は三好三人衆を恨んでいるので許すつもありはありません。
元亀2年(1571年)6月。久秀は交野城城主・安見右近を呼び出して自害させました。和田惟政や畠山秋高とつながっていたからだといいます。久秀親子は交野城を攻撃しましたが落とせませんでした。
さらに九条家の娘を義昭の養女にして筒井順慶に嫁がせました。足利義昭は筒井順慶と同盟しました。久秀にとって筒井順慶は大和国を奪い合う相手です。そうなると久秀配下の者に筒井側に寝返るものが出てきました。
義昭にとっては畿内の味方を増やすための選択だったかもしれません。それに久秀は兄・義輝を討った敵も同然です。実行したのは義継・久通でした。若い彼らの独断とは思えず、久秀に不信感は持っていたかもしれません。
できればもっと信頼できる者を味方にしたいと思っていたのでしょう。
でも、久秀にとっては義昭の裏切り行為です。
筒井順慶との対立
元亀2年(1571年)8月。将軍・足利義昭を味方にした筒井順慶は辰市(奈良市)に砦を造り、再び久秀と戦う準備をはじめました。
久秀は久通・三好義継とともに辰市の筒井順慶と戦います。ところがこの戦いに敗北。多くの家臣を失いました。筒井城も奪われ、久秀配下の大和の国人にも筒井順慶に味方するものが出てきました。
8月には和田惟政が荒木村重に破れ戦死。久秀は和田氏の高槻城を接収しようとしましたが、信長が佐久間信盛を派遣したため撤退。
10月10日。大和国から北上し、槇島城(京都府宇治市)を攻めました。山城南部を支配下に置こうとしました。久秀が大和を留守にする間は三好康長が大和国を守りました。
11月。三好康長とともに畠山昭高の高屋城を攻めました。信長は高屋城に援軍を派遣したため撤退しました。
義昭と三好方は互いに調略を行います。
元亀3年(1572年)。三好三人衆の石成友通が足利義昭に寝返りました。秀久が三好三人衆と和睦したため、石成友通の立場が低下。そこを義昭に引き抜かれてしまったのです。
4月。松永久秀は三好義継・三好長逸とともに安見氏の交野城を囲みました。それに対して織田信長が援軍を派遣。この時点では織田信長は「松永久秀が裏切った」と判断したようです。
久秀達は撤退、信貴山に立て籠もりました。
5月。織田信長と筒井順慶が久秀の居城・多聞山城を囲みました。しかし信長も畿内で戦い続ける余裕はなく、大規模な戦闘にはなりませんでした。
その後も大和や摂津方面で筒井勢と戦うなど小競り合いが続きました。
三好・松永・浅井・朝倉・本願寺は協力して義昭・信長に対抗していました。
元亀3年(1572年)7月。ところが阿波三好家では阿波三好家当主の三好長治が篠原長房を殺害。畿内の三好勢力を軍事力で支えてきた阿波三好家が弱体化します。
このころ三好家をささえた重鎮・三好長逸もすでになく、阿波三好家は織田信長との戦いに消極的になります。
足利義昭と織田信長が対立に巻き込まれる
元亀3年(1572年)8月。苦しくなった義昭は武田信玄に本願寺と信長の仲裁を命じました。本願寺と武田信玄は親戚関係にあったからです。
このころ。もともと良好とはいえなかった足利義昭と織田信長の関係は悪化。
元亀4年(1573年)2月。足利義昭は信長に対して挙兵を決意。松永久秀にも味方になるように伝えてきました。
4~7月にかけて上洛した信長によって義昭は京都を追放されます。義昭は若江の三好義継を頼りました。
8月。義昭に味方していた岩成友通が淀城で織田軍に討たれます。
足利義昭・三好義継が織田信長と対決する中。大和国内の国衆が織田信長に寝返ってしまいました。久秀は軍事行動が取りづらくなります。久秀を裏切った義昭や、義昭を最後までかばおうとする義継を危険を犯してまで助けに行く気持ちもなかったかもしれません。
11月。三好義継は織田軍に攻撃され討ち死に。戦国大名としての三好宗家は滅亡しました。
義継が討たれたことを知った久秀は信長に降伏しました。
12月26日。久通のいた多聞山城を開城して織田信長に引き渡しました。久通は久秀のいる信貴山城に移りました。
久秀が仕えた三好家は崩壊。松永久秀は織田信長の配下として生きる道を選びました。
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参考文献
・天野忠幸,”松永久秀と下剋上”,平凡社。
・編:天野忠幸,”松永久秀歪められた戦国の梟雄の実像”,宮帯出版社。
・太田牛一,訳:中川太古,”現代語訳 信長公記”,新人物文庫。
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