三好長慶(2) 足利義輝・細川晴元を圧倒し京都の支配権を得る

三好長慶は阿波の守護代三好家の当主。細川吉兆家(本家)の晴元に仕えていました。

やがて細川晴元と対立し、晴元の勢力を倒し、細川氏綱とともに上洛しました。
その後は、晴元に味方する足利義輝とも対立。義輝の勢力との戦いにも勝ち、京都の支配権を獲得します。

この記事では、三好長慶が細川晴元から独立し京都の支配権を獲得するまでを紹介します。

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三好長慶とは

三好家の家紋
三階菱に五つ釘抜

名 前:三好長慶(みよし ながよし)
別名:三筑
官名:筑前守
生 年:大永2年2月13日(1522年3月10日)
没 年:永禄7年7月4日(1564年8月10日)
父:三好元長(みよし もとなが)
母:慶春院
弟:三好之虎(実休)、安宅冬康、十河一存、野口冬長
妻:波多野稙通の娘
継室:遊佐長教の娘
子:義興
養子:義継

細川晴元との決別

細川晴元と氏綱の対立

細川京兆家(本家)の当主を巡り細川晴元と細川氏綱対立。やがて畿内を巻き込む戦いになっていました。細川晴元に仕えていた三好長慶は細川氏綱・遊佐長教の軍と戦います。

 天文16年(1547年)7月21日。舎利寺の戦いで長慶は細川氏綱・遊佐長教に勝利しました。

将軍・足利義晴は細川氏綱を支持していましたが、敗戦の報告を聞いて細川晴元と和睦。

遊佐長教は逃走し高屋城に立て籠もりました。三好軍は高屋城を包囲し8ヶ月が過ぎました。

天文17年(1548年)4月27日。六角定頼の仲介で三好長慶と遊佐長教は和睦。

その後、長慶は遊佐長教の娘と政略結婚します。

池田家の家督相続をめぐり三好政長と対立

5月6日。この戦いで池田信正は氏綱に味方していました。細川晴元は信正を許さず切腹させました。池田家の家督を継いだのは三好政長の孫・長正でした。

8月。この決定に怒った池田家臣が池田城から政長派を追放。長慶に協力を求めてきました。三好長慶はすぐに池田家に応え晴元の側近に三好政長・政勝親子の処分を訴えます。しかしその訴えを晴元は拒否しました。

逆に、晴元は長慶の弟・十河一存を調略。一存は政勝の榎並城に入りました。しかし、一存はのちに長慶のもとに戻っています。

摂津で晴元・政長と戦いを続ける

10月。長慶の軍が三好政勝(政生)が籠城する榎並城(大阪市城東区)を包囲します。

細川晴元の義父・六角定頼は長慶の動きを「謀反」と非難。晴元も政勝を助けるため援軍を送ります。

晴元の動きに怒った長慶は晴元に見切りをつけます。義父・遊佐長教に細川京兆家の当主を氏綱にしようと相談をもちかけます。

長慶に味方したのは三好四兄弟、三好家の地元阿波・讃岐の他、河内の国衆、摂津、丹波にも味方する国衆がいました。氏綱の味方でなかった国衆も長慶のもとに集まりました。三好政長が外孫を池田家の跡継ぎにしようとしたので摂津国衆の反感をうけ、長慶が支持される理由の一つになったとも考えられます。

天文18年(1549年)1月。長慶の本隊が越水城から出陣。
2月。堺で遊佐長数と合流。政長派の柴島城(大阪市東淀川区)を落としました。
榎並城を攻撃しますが4月になっても榎並城は落城しません。

三好政長は政勝を助けるため出陣しますが、摂津の国人が長慶に味方しているため山城から摂津に入れません。しかたなく丹波から摂津に入り三好軍と戦います。

細川晴元は近江に行き六角定頼の援軍の約束を取り付け、丹波から摂津に入り長慶軍と戦いました。しかし晴元と政長だけでは長慶に勝てません。六角の援軍を待つことにします。

江口の戦いで因縁の敵を破る

5月28日。細川晴元は三宅城(大阪府茨木市)に入り、6月11日に三好政長が江口城(大阪市東淀川区)に陣取りました。三好軍の補給路を断ちながら六角の援軍を待つ作戦です。江口城は川に囲まれた要害でしたが水路を封鎖されると孤立する弱点がありました。

長慶は水軍を率いる安宅冬康や、勇猛な十河一存を江口城に派遣。江口城は孤立してしまいます。

6月24日。六角軍が到着する前に、長慶は仕掛けました。政長は江口城を守り切ることができず討ち死にしました。

長慶は父・元長の代から続いていた一族の因縁に決着をつけました。

三好政長の戦死を聞いた晴元は戦わずに京に戻ります。そして足利義晴・義輝親子を連れて近江坂本に逃れました。

父・政長が討たれたことを知った政勝は榎並城を放棄して瓦林城(兵庫県西宮市)に撤退しました。

細川氏綱と共に上洛

7月9日。長慶は細川氏綱とともに上洛しました。

7月15日。長慶は摂津に戻り晴元派の伊丹親興が籠城する伊丹城を包囲。翌年3月まで続きましたが、遊佐長教の仲介で親興は降伏。長慶が摂津国を統一しました。

足利義輝との対立

中尾城の戦い

天文19年(1550年)2月。近江に亡命していた足利義晴は長慶に対抗するため慈照寺(銀閣寺・京都市東山区)の裏山に中尾城を建設しました。中尾城は鉄砲への防御も考えて作られた城でした。というのも長慶は戦で鉄砲を使っていたからです。

5月に義晴は死亡。

6月。足利義輝は細川晴元とともに中尾城に立て籠もりました。三好軍と小競り合いが続きます。この戦いではお互いに鉄砲を使いました。

長慶は近江方面にも松永久秀らを派遣。京都がわと挟み撃ちにしました。退路を絶たれることを恐れた義輝は自ら中尾城を焼いて堅田(滋賀県大津市)に逃げました。

長慶は伊勢貞孝を通じて義輝・晴元に和睦を申し込みましたが、義輝らが断ります。

将軍も管領もいない京都では長慶が治安維持を担当しました。公家や寺社の信頼を得ていきます。

長慶が暗殺されそうになる

天文20年(1550年)3月7日。暗殺を目論む挙動不審の者がいたため逮捕処刑しました。

3月14日。伊勢貞孝の屋敷に招かれたところ、再び暗殺者に襲われて負傷。軽症でした。犯人は義輝家臣の進士賢光。賢光は暗殺失敗の後自害しました。

3月15日。混乱のさなか、足利派の三好政勝と香西元成が丹波宇津に侵入しましたが、三好長虎が追い払いました。

5月5日。義父・遊佐長教が帰依していた僧侶の珠阿弥に暗殺されてしまいます。珠阿弥は何者かに買収されていたようです。

7月。三好政勝・香西元成を中心にした足利・細川軍が京都奪回を狙って侵入。長慶は松永久秀・松永長頼を派遣して撃退します。

義輝と和睦

天文21年(1550年)1月2日。六角定頼が死去。あとを継いだ六角義賢は長慶と義輝の和睦交渉を進めます。

1月27日。近江と山城の国境になる逢坂で長慶と久秀は義輝・晴元を迎えました。

義輝は京都に戻りました。
細川晴元の長男・聡明丸(信良)は、長慶の長男・千熊丸(義興)に養育されることになりました。人質です。晴元は出家して「氷川」と名乗り、若狭に落ち延びました。
細川吉兆家は正式に氏綱が相続しました。
三好長慶は義輝の奉公衆のちに御供衆になりました。
これが和睦の条件だったのでしょう。

将軍・足利義輝
吉兆家当主・細川氏綱
三好長慶

という体制ができあがりました。

細川晴元の抵抗

長慶と義輝が和睦。細川家の家督も氏綱と決まりました。しかし晴元は諦めていませんでした。若狭守護・武田信豊の力を借りて挙兵します。

4月。丹波守護代・波多野元秀も挙兵。
長慶は元秀の立て籠もる八上城(兵庫県篠山市)を囲みました。とろこが八上城包囲中に芥川孫十郎が裏切ります。

5月23日。長慶は包囲をといて越水城に撤退。京都においていた聡明丸を越水城に移しました。

10月。丹波に出兵、晴元派の武将と戦いますが小規模な戦闘がほとんどでした。

12月。芥川孫十郎が降伏します。

足利義輝を追放

天文22年(1551年)閏1月。幕府奉公衆の上野信孝たちが晴元と通じて長慶を排除しようとします。晴元と長慶の軍は京都西部で衝突、小規模な戦闘がおこります。

上野信孝ら反長慶派の将軍側近から人質を取りました。

3月8日。上野ら反長慶派の意見を採用した足利義輝は長慶との和睦を破棄。霊山城に入りました。

3月16日。晴元が義輝支援のため軍を派遣しますが長慶は撃退します。

晴元らとの争いが続く中。三好長慶は従四位下になりました。足利義輝・細川晴元・細川氏綱と同じ位でした。

7月。芥川孫十郎が再び反乱。長慶は芥川城(大阪府高槻市)を包囲します。

晴元は京都に侵入。晴元は上野らに迎えられ義輝と会いました。義輝と晴元は再び同盟しました。義輝・晴元軍は長慶派の西院城(京都市右京区)を攻めます。

長慶は西院城を助けるため上洛。すると義輝と晴元は敗走。義輝は朽木に落ち延びました。

長慶は将軍に従うものは領地を没収すると宣言したので、義輝に従った多くが義輝を見捨てて京に戻りました。

以後、義輝は5年間朽木で暮します。

その間、将軍のいない京都は細川氏綱と三好長慶が治めることになります。長慶は形の上では氏綱の家臣のような扱いですが、氏綱と同等以上の影響力をもつ畿内の実力者になっていました。

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