三好義継|室町幕府将軍・足利義輝を殺害した男の前半生

三好義継は戦国時代の武将です。

十河一存の息子ですが、伯父の三好長慶に後継者がなかったので、三好本家の跡継ぎになりました。

室町幕府将軍・足利義輝を殺害してしまいます。しかしその後は織田信長との戦いに敗れ、いまいちあんまりいいイメージはもたれていません。

三好義継とはいったいどんな人だったのでしょうか。

足利義輝を討つまでの前半生を紹介します。

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三好義継 とは

名 前:三好義継(みよし よしつぐ)
 十河重存→義重→義継
通称:孫六郎
幼名:熊王丸(幼名)
生 年:天文18年(1549年)
没 年: 天正元年11月16日(1573年12月10日)
父:十河一存(そごう かずまさ)
母:九条稙通の娘(あるいは養女)
子:仙千代、娘(加治肥前の妻)、義兼、義茂

讃岐の大名・十河家に生まれる

三好義継は生涯の間で何度も名前を変えています。
この記事では「義継」で統一します。
それぞれの名前については改名した時期を紹介するにとどめます。

天文18年(1549年)。讃岐(香川県)の大名・十河一存の子供として生まれました。十河一存は三好長慶の弟。十河家の養子になって家督を継いでいました。

幼名は熊王丸。

母は九条稙通の娘(あるいは養女)。九条家は摂関家のひとつ。

九条家は近衛家と対立していました。足利義晴・義輝と縁の深い近衛家に対して九条家は三好家と深い縁がありました。

十河 重存(そごう しげまさ)と名乗っていました。

永禄4年(1561年)。13歳のとき父・十河存保が死亡。
伯父の三好長慶が養育しました。

三好本家の後継者に選ばれる

永禄6年(1563年)8月。三好宗家の嫡男で従兄弟の三好義興が病死。長慶には義興以外の男子がいません。

そこで義継が長慶の養子になって三好宗家を継ぎました。三好重存(みよし しげまさ)と名乗ります。

十河一存には男子が一人しかいません。義継が三好宗家を継ぐと十河家には跡継ぎがいません。そこで十河家では阿波三好家の三好存保を養子として迎え十河家を継がせました。

なぜ回りくどいやり方をしたのかについては、義継の母が九条家出身だったから。というのが有力です。

九条家は近衛家と関白の座を争っていました。そこで三好家当主に九条家と縁の深い義継をつがせ、三好と九条家の関係を深くて近衛家に対抗しようとしたと考えられます。

おなじころ。松永家でも家督が久秀から久通に譲られました。

三好長慶・松永久秀の時代から、三好義継・松永久通の時代へと世代交代が進もうとしていました。

永禄7年(1564年)1月22日。三好義継は上洛。
23日には三好長逸・松永久通を従えて将軍・足利義輝に会いました。このとき、三好長慶の跡継ぎになったことが公表されました。

6月22日。三好義継は三好長逸・松永久通と兵4000を率いて上洛。
義輝と会って家督相続の許可がでたことにお礼を述べています。

このとき三好方では朝廷に改元を申請していました。長慶の考えて進めていたようです。朝廷に改元を申請するのは将軍の役目です。このときの三好家は足利将軍家に匹敵する家柄という自負があったのでしょう。しかし却下されました。

三好家当主になる

永禄7年(1564年)7月4日。三好長慶が死去。
三好義継が三好宗家を継ぎました。このとき義継は15歳でした。

そのため長慶の死は秘密にされました。

義継は一族長老の三好長逸や三好宗渭、松永久通らの助けを借りて畿内の経営を行いました。

永禄8年(1565年)5月1日。足利義輝から「義」の字をもらい「重存」から「義重」に名を変えました。

「左京大夫(正五位上 )」になりました。三好家は「修理太夫(従四位下)」を希望していましたが与えられたのは格の低い左京大夫でした。それでも細川宗家に匹敵する高い地位です。

将軍・足利義輝殺害

長慶の死後。三好家では長慶の死を隠していました。京都では隠し通すのも難しく、将軍・足利義輝も長慶の死を知ったようです。

そこで足利義輝は復権を目指していました。三好と三好に味方する幕府重臣の伊勢氏の関係を裂こうとしていたといわれます。三好・伊勢側ではさまざまな憶測が飛び交っていました。

永禄8年(1565年)5月18日。義継は三好長逸・松永久通とともに1万あまりの兵を率いて上洛。義継は革堂(行願寺)、三好長逸は知恩寺、松永久通は相国寺に宿泊しました。

1万の大軍が京に進軍しても足利義輝は二条御所から逃げませんでした。

5月19日辰の刻(午前7~9時ごろ)。三好義継達は二条御所を包囲しました。

最初は「訴えがある」といって二条御所におしかけました。義輝に対して、三好氏に敵対的な幕臣(進士晴舎たち?)の排除を要求。しかし義輝はとうてい受け入れることはできません。

やがて戦闘が始まり、午の初刻(午前11時ごろ)には足利義輝を討ち取りました。

三好義継たちが最初から足利義輝を討ち取るつもりがあったのか、結果的に討ち取ることになったのかはわかりません。

しかし三好長慶・松永久秀なら足利義輝と戦闘になっても討ち取ったりはしなかったでしょう。義輝本人に力はなくても将軍の権威を尊重する大名は全国にいるからです。彼らに三好を討つ大義名分を与えてしまうことになります。

でも義継・久通の若い世代。そして彼らを支える三好長逸たちにとって義輝は思い通りにならなければいなくてもいい存在。だったのかもしれません。

なお義輝殺害に松永久秀は参加していません。松永久秀と三好三人衆が義輝を暗殺した。というのは間違いです。

義輝殺害の後、名前を「義重」から「義継」へ変えました。武家の棟梁(義は足利家の通字)を「継ぐ」という意味が込められていたのかもしれません。

京都や公家の間では将軍・足利義輝を討ったことへの批判や、義輝への同情はあまりありませんでした。

義継は足利将軍家なしのまま京都を掌握しようとします。

しかし戦国の世は義継の思い通りにはいきませんでした。

三好家の内紛

大和国(奈良県)の興福寺にいた覚慶(後の足利義昭)に逃げられてしまいます。松永久秀が命を保証して幽閉していたのですが、朝倉義景らのてびきで脱出しました。さらに丹波を支配していた内藤宗勝(久秀の弟)が反三好勢力に敗北、討ち死にしてしまいます。その結果、丹波一国が反三好勢力になってしまいました。

松永兄弟の失態に三好長逸・三好宗渭・岩成友通らが不満を高めます。

11月16日。三好義継のいた飯盛山城に三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通ら)が乱入。義継の家臣、長世軒淳世や金山長信を殺害。三人衆は松永久秀の追放を要求しました。

義継は河内(大阪府)の高屋城に身柄を移されます。その後は三人衆とともに松永久秀と戦いました。

足利義栄を支持する四国からの援軍で義継の立場が微妙に

松永久秀らと戦うため、三人衆は阿波三好家から三好康長・篠原長房ら援軍を呼び寄せます。三好康長・篠原長房は阿波にいた足利義栄を次期将軍にしようとしていました。三人衆も阿波勢に同調。

義継に従う金山信貞たちは阿波勢や三人衆に不満をもつようになります。阿波勢だけでなく三人衆らも足利義栄を主君と仰ぎ、義継をないがしろにしていたからです。足利義栄も三好義継を軽んじます。

金山信貞らは義継に三人衆とは縁を切って久秀の味方をするように説得。義継も若い自分をないがしろにする足利義栄や三人衆には不満をもっていました。そこで高屋城を脱出して堺にいる松永久秀のもとへ身を寄せました。

その後は松永久秀とともに三人衆と戦います。

それまで松永勢は不利でしたが義継が合流したことで松永勢が勢いづきます。松永久秀は各地の大名と連絡をとり足利義昭を次の将軍にしようとしていました。義継も久秀に協力することになります。

永禄10年(1567年)。大和国を舞台に半年にわたって戦い、東大寺での戦いで勝利しました。しかし四国勢の援軍を得た三人衆は依然として畿内で大きな勢力を持っていました。

永禄11年2月8日(1568年)。阿波勢と三人衆が推す足利義栄が征夷大将軍になりました。

義継の苦境はまだ続きます。

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