真田信繁にはわかっているだけで4人の妻がいました。
信繁の直系は絶えたので、
どのような女性だったのか詳しい資料は残っていませんが。
断片的に残る資料から、信繁の妻達をまとめてみました。
信繁の妻たち
()内はNHK大河ドラマ「真田丸」劇中の名前
堀田作兵衛の娘(お梅)
ドラマ「真田丸」の中ではお梅になっていますが、実際の名前はわかっていません。
真田郷の地侍・堀田作兵衛は信繁のもり役を務めていたともいわれます。
その縁で作兵衛の息子・作兵衛興重とは親しかったようです。
信繁にとって作兵衛の娘はもっとも親しみの持てる女性だったかもしれません。
十代半ばで、できちゃった結婚。
真田家と堀田家では家の格が違うので正室にはなれません。
しかしその後、信繁は上杉へ人質に出されますのでいっしょにいた期間は短いです。
お梅がその後どうなったかはわかりません。
二人の間には娘「すへ」が生まれます。
参考記事:信繁初恋の人・梅とは
真田太平記には登場しません。
高梨内記の娘(きり)
父は真田家重臣・高梨内記
いつごろ、信繁の妻になったのかはわかりません。
上田にいたころとも、九度山に行ってからとも言われます。
九度山に行っているのは確かなようです。
高梨内記と真田信綱の正室お北殿は姉弟だっという説もあります。
だとすれば、お北殿の娘である清音院(こう)ときりは従姉妹ということになるのですが。
信繁と高梨内記の娘の間には娘が二人生まれたといいます。
・お市 上田か九度山のいずれか生まれた。早世してます。
・於梅 詳細は お梅・片倉家に嫁いだ真田信繁ときりの娘
参考記事:真田信繁の幼馴染・きりはどんな人?
真田太平記には登場しません。
竹林院
歴史上は信繁の正室といわれる女性。
戦国大名・大谷吉継の娘。(養女か妹という説もあります)
信繁が豊臣秀吉の元で働いていた時期に一緒になったと思われます。
大谷吉継は敦賀5万石の大名。秀吉の信頼の厚かった武将です。
その娘を妻にするということは信繁は秀吉の信頼も高かったと思えます。
関ヶ原のあとは信繁と共に九度山に行きました。
大坂の陣のあとはあくりと共に紀伊に潜伏していたところを捕まります。
晩年はおかねと共に暮らしたとも言われます。
信繁との間には少なくとも4人の子供がいます。
・大助幸昌
・あくり
・おかね
・大八(片倉守信)
参考記事:竹林院・真田信繁の正室とは
真田太平記では “於利世”
隆清院
父は豊臣秀次
母は公家出身で秀次の正室となった徳法院とも言われます。
隆清院がなぜ信繁と出会ったのかは良くわかっていません。
一説には、秀次とその妻子が処刑されたあと寺に入り父母の菩提を弔う生活をしていました。そのとき、九度山に来ていた信繁と出会ったということです。
九度山を出た後は大坂城に入りました。大坂城の陥落前に脱出しました。
信繁との間には二人の子供がいます。
・お田
・三好 左馬之助 幸信
詳細はこちら参照:隆清院・豊臣の血を引く信繁の側室
他にも九度山の農民の娘との間に子供ができたという説もあり。
まだ知られていない女性がいたかもしれません。
父・昌幸に比べると妻の数は少ないですが、
人質生活や幽閉生活が長かった割にはずいぶんと子沢山な気はしますね。
父に似て女好きだったのかもしれません。
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