斎藤高政(一色義龍)は斎藤道三の長男。道三を殺した人物として知られます。道三が出世物語の主人公として人気がある一方で、義龍は父親を殺した人物としてあまり評判はよいとはいえませんでした。
しかし争いで荒れ果てた美濃国を立て直し。織田信長の美濃侵攻を食い止めるなど成果はあげています。むしろ領地を経営する戦国大名としての能力は道三よりも優れていたかもしれません。
斎藤高政とはどんな人だったのか紹介します。
斎藤高政(一式義龍)とは
家紋(一色氏として)
足利二つ引
名 前:斎藤高政(さいとう たかまさ)
別 名:一色義龍(いっしき よしたつ)
幼名:豊太丸
生 年:大永7年6月10日(1527年7月8日)
没 年:永禄4年5月11日(1561年6月23日)
父:斎藤利政(道三)
母:深芳野
正室:近江の方
子:龍興
父は美濃国の守護代・斎藤利政(道三)。
母は深芳野(みよしの)。斎藤利政の側室。
斎藤家の当主になる
天文23年(1554年)。父・道三が隠居。斎藤氏の家督を継ぎました。斎藤氏の居城・稲葉山城の城主となります。道三は鷺山城に移動しました。
しかし家督を譲ったといっても全てを高政に任せたわけではありません。国内当地を高政に任せ、外交などは道三が行っていたようです。
ところがその後、高政と道三は険悪になります。道三は高政のことを 「耄者(おいぼれ)」 といい。弟の孫四郎や喜平次を「利口者」と言って可愛がりました。孫四郎には「左京亮」の名を与え斎藤家を継がせようとしたり、末弟の喜平次には「一色右兵衛大輔」の名を与え、名門一色氏を名乗らせました。
弟たちは高政を侮るようになりました。
高政は正室小見の方の子どもたちを優遇する道三に危機感を持ちます。
父・道三と対立
弘治元年(1555年)11月。地位を奪われると感じた高政は長井道利とともに孫四郎や喜平次の殺害を計画します。長井道利は道三の弟とも、長井長弘の血筋のものともいわれます。道三のやり方に反感を持っていたようです。
高政は道三が私邸に移ったすきをついて長井道利を派遣して病になったと偽って稲葉山城に孫四郎と喜平次を呼び出します。酒に酔ったところを家臣に襲わせて殺害しました。その後、父・道三に弟たちを殺したことを知らせます。事実上の宣戦布告です。
驚いた道三は城下に火を放ち鷺山城を出て大桑城に逃げました。
年が明け雪がとけたころ。両者はついに激突しました。
長良川の戦いで父・道三を倒す
弘治2年(1556年)4月。道三は鶴山に布陣しました。高政は長良川南岸まで兵を進めました。織田信長も岐阜で兵を待機させました。
高政のもとには西美濃三人衆をはじめ多くの斎藤家家臣が集まりました。
これは道三の強引な領国経営や、道三とその父が強引な方法で成り上がった事に反発を持つ者が多かったせいだといわれます。
道三の統治時代、美濃は多くの国を敵に回しました。高政が家督を継いだ時点で斎藤家の味方は尾張の織田家くらいです。他国に攻められることも多くなり国内は荒れました。家臣や領内の国人衆の中には道三の方針に対する不満が高まっていたようです。
高政のもとに集まった兵力は17、500といわれます。それに対して道三には2、700の兵しかありませんでした。
道三は鶴山を降りて長良川岸まで来ました。そこで高政配下の竹腰道鎮が先陣をきって突撃。戦いが始まりました。
竹腰道鎮が討ち取られるなど最初は道三側が健闘していました。しかし数の多い高政側は道三側を圧倒。ついに道三を討ち取りました。
この勝利で勢いを得た高政は信長に兵を差し向けます。高政の軍は撤退する信長の兵と戦いますが、信長は河を渡って尾張に戻りました。
この戦いの前。高政は「はんか」と名乗ります。「范可」とは唐の故事に出てくる人物で訳あって父親を殺した者のことです。高政は自分が父殺しを行うことを意識してこの名をつけたと考えられます。
争いで荒れた美濃国を立て直す
美濃国は長年の争いで荒れ果てていました。高政は領内の立て直しに取り組みます。高政は安堵状を発行。土地の所有をめぐる争いを片付けます。宿老による合議制で領内の運営をしました。一部の者が権力を独占する古いやり方を改めたのです。
一色の名字に変える
高政は将軍・足利義輝から一色氏を名乗る許可をもらいます。斎藤氏から一色氏に改名しました。名前も義龍に変えました。
一色は由緒あるある名字です。かつて一色家は守護代の斎藤家や美濃守護の土岐家よりも格式の高い家柄でした。高政は美濃の統治者としての正当性を主張するとともに、美濃に斎藤家や土岐家に代わる新しい秩序を作ろうとしたのでしょう。
以後、一色義龍と名乗ります。
織田信長は義龍が「一色」の名字を使うことを認めませんでした。そのため信長や同盟者の家康は斎藤義龍と呼んでました。後の時代の人々も織田・徳川史観の影響で斎藤義龍と呼ぶことが多いです。
一色家を名乗る前に斎藤義龍と名乗ったことはあるかもしれませんが。短期間でした。
当時の織田・徳川家以外の人々は「一色義龍」と呼んでいました。
一色義龍は他国との関係を改善しようとしました。
織田信長の美濃侵攻が激しくなりますが、高政は信長の美濃への侵攻を食い止めました。
永禄元年(1558年)。治部大輔になりました。
永禄2年(1559年)。足利幕府相伴衆になりました。
南近江の六角義賢と同名。北近江の浅井久政と戦います。
永禄4年(1561年)。左京大夫(左京兆)になりました。
しかしその年の5月11日に病死しました。
享年35。
ハンセン氏病だったとも奇病だったともいわれます。
斎藤高政(義龍)は道三の子ではない?
物語などでは高政(義龍)は道三の子ではなく土岐頼芸だと言われることもあります。
高政の母・深芳野が道三の側室になる前は土岐頼芸の妾だったからです。
深芳野が正式に道三の側室になって1年足らずで生まれているので父親は土岐頼芸ではないかと疑われたというのです。でも深芳野が道三の側室になる前から通じていた可能性はあります。だからこそ頼芸は深芳野を道三に譲る気になった可能性もあります。
道三自身も高政は自分の子だと思っていたようです。高政自身も自分の父親を討ったという想いが強かったようです。
事実。高政は、道三が追放した土岐頼芸を連れ戻そうとはしませんでした。頼芸に対しては特別な思いはなかったのです。
少なくとも道三や高政本人は実の親子かどうかは気にしてなかったのではないでしょうか。
むしろ。後世の人が気にしているようです。子孫にとっては「高政が討ったのは実の父ではない」という噂が出てくれたほうが父親殺しの汚名から逃れられるため都合がよかったのかもしれません。
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