倭の五王と東アジアの国々(2)倭王珍(仁徳天皇)から倭王武(雄略天皇)まで

倭の五王と東アジアの国々の関わりを日本書紀、宋書、三国史記、好太王碑などから明らかにしていきます。そこにはダイナミックに世界の国々と関わる倭王の姿があります。

既に倭王讃までの時代はこちらで紹介しました。

倭の五王と東アジアの国々(1) 倭五王以前から倭王讃(応神天皇)まで

今回は倭王珍と思われる仁徳天皇から倭王武・雄略天皇までを紹介します。

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倭の五王と東アジアの国々の関わり

仁徳天皇・倭王珍?

仁徳天皇即位年。癸酉。433年。

438年。倭王珍、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」と名乗り承認を求める。認められたのは「安東将軍・倭国王」のみ。倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にするよう求めて認められた。(宋書)

440年。倭人、南辺を襲撃、生口を掠奪する。また東辺を襲撃する。(三国史記・新羅本記)

仁徳天皇12年 新羅が朝貢してきた。(日本書紀)

仁徳天皇12年 高句麗が鉄の盾・的を贈ってきた。(日本書紀)
解説:長寿王の時代は日本への使者が増えます。長寿王は半島南部への野心を諦めておらず、後に百済を攻めます。百済・新羅は単独で高句麗に対抗する力はなく、倭さえおとなしくさせれば半島南部は安泰。日本に大陸の物を与えて懐柔し百済から引き離すための外交工作かもしれません。

実はこれと同じ作戦を飛鳥時代の高句麗も行っています。高句麗は、唐・新羅連合に対抗するため日本に使節を派遣、味方にしようとしました。戦況に応じて敵味方を使い分けるのが半島の国々の作戦なのです。

この前まで戦争していたのに使節を送ってきたり協力するのはおかしい。という頭の硬い考えでは外交の歴史は理解できないのです。

仁徳天皇17年 新羅が朝貢しなかったので詰問したところ貢物を贈ってきた。(日本書紀)

仁徳天皇17年 百済に紀角宿禰を派遣、国郡の堺の分けたり産物の記録をした。(日本書紀)

仁徳天皇53年 新羅が朝貢しなかったので詰問するため上毛野の祖先竹葉瀬やその弟田道を遣わした。新羅の抵抗にあったが戦いに勝ち捕虜を連れて帰った。(日本書紀)

仁徳天皇58年 呉国・高句麗が朝貢した。(日本書紀)

解説:呉国が朝貢したとありますが、宋の返礼の使者を誇大に書いていると思われます。

 

 

443年 倭王済が宋に使者を送った。「安東将軍・倭国王」に任命された。(宋書)

444年。倭兵、金城を囲む。(三国史記・新羅本記)

451年 倭王済 「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」に追加で任命された。安藤将軍はそのまま。23人が将軍、郡太守に任命された。(宋書)

仁徳天皇87年 死去。(日本書紀)

日本書紀の長過ぎる在位年数はともかく。仁徳天皇は聖帝と言われることがありますが、意外と外交熱心だったことがわかります。

履中・反正・允恭天皇?倭王済

履中元年。庚子 460年

履中天皇6年。病にて死去。(日本書紀)

反正元年 丙午 466年
反正天皇5年。死去。(日本書紀)

允恭天皇3年。病を直すため新羅に使者を送り医師を招いた。天皇の病は治り、医師に厚く礼をして返した。(日本書紀)
允恭天皇?年。新羅国王が81艘の船で貢物を献上した。大使の金波鎮漢紀武(こんはちんかんきむ)は薬の処方をよく知っていたので天皇の病を治した。(古事記)
解説:古事記にも同様の記事があります。医師を呼んだのではなく、名前をあげて病を治したのは大使だったことが書かれています。古事記のほうが正しいのかもしれません。

允恭天皇42年死去。新羅王は嘆いてたくさんの船にたくさんの貢物と楽人を乗せてよこした。(日本書紀)

履中・反正・允恭天皇の時代は日本書紀にも海外の記事がありません。興との親子関係からすると済は允恭天皇の可能性が高いですが。

安康天皇・倭王興

安康元年。安康天皇が即位。甲午(454年?)。(日本書紀)

済の死後、世子(後継ぎ)の興が宋に使者を派遣した。(宋書)

459年。倭人・兵船100余りで新羅の東辺を襲い月城を囲む。(三国史記・新羅本記)

460年。倭国が宋に特産物を献上した。(宋書本記)

済が死亡。世子・興が使者を派遣。(宋書)

462年。孝武帝は倭王興を「安東将軍・倭国王」に任命した。その後、興が死んで弟の武が王になった。(宋書)

安康天皇3年。眉輪王に暗殺される。(日本書紀)

解説:興は武の兄。武は宋に宛てた書状で「にわかに父兄を失い」と述べていることから、父・允恭天皇の死後わずか3年で急死した安康天皇が倭王興の可能性は高いです。在位年数は短いものの新羅への攻勢は活発。5世紀中~後期は新羅は高句麗とも敵対していたので高句麗が新羅の援軍に来ません。そのせいか倭と新羅の戦いが多くなります。

雄略天皇・倭王武

雄略元年。雄略天皇が即位。丁酉(457年?)。(日本書紀)

興が死亡。弟の武が即位。自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」と名乗った。(宋書)

461年。百済の武寧王誕生。(斯麻王(武寧王)墓碑)
雄略5年。百済の加須利君(蓋鹵王)が、弟の軍君(昆支君)に日本に行くよう命令。軍君は王の女を賜りたいといったので加須利君は孕んだ女を弟に与えた。身ごもった女は加羅島で出産した。そこでこの子を嶋君という。軍君は船に母子を載せて国に送ったこれが武寧王である。(日本書紀)

462年。倭人・新羅の活開城を破る。(三国史記・新羅本記)
463年。倭人・新羅の城を襲う。(三国史記・新羅本記)

雄略7年。吉備上道臣田狭を任那の国司に任命した。天皇は吉備上道臣田狭の弟と吉備海部直赤尾に新羅を討つように命じる。西漢才伎(渡来系の職人)が「もっといい人材が韓国にいます。召し出して使うのがいいでしょう」と言ったので上道臣田狭の弟を百済に派遣した。弟は百済に渡って職人は集めたものの、新羅を討たずに帰って来た。弟の妻・樟媛が夫を殺し海部直赤尾とともに職人を率いて帰ってきた。これを新漢(いまきのあやびと:新しい渡来人)という。

雄略8年。使者を呉国に送った。新羅は討たれることを怖れ高句麗に援軍を求めた。ところが高句麗軍は新羅を守るとみせかけて新羅を攻めてきた。新羅王は任那王に使いを送り日本府の将軍を派遣してくれるよう依頼した。任那王は日本府の将軍を派遣して新羅を助けた。
解説:いわゆる任那日本府の記述。名称はともかく倭国の兵が常駐する場所が伽倻にあったことを伝えています。前年に任那府が新羅を救援しておきながら雄略天皇は新羅を討とうとします。任那府と大和朝廷の意思統一ができていないのかもしれません。

雄略9年。天皇は新羅を討つため将軍を派遣。しかし戦死したり病死したり策略にはまったりして将軍たちが死亡。失敗に終わる。

雄略10年。呉国が鵞鳥を贈ってきた。百済から逃げてきた者がいた貴信という。あるいは呉国人ともいう。

雄略14年1月。呉国の使いが来た。使節は住江津(大阪府大阪市住ノ江区)に泊まった。呉の使節のために道を造った呉坂(大阪府大阪市住ノ江区か東住ノ江区)にという。
3月。その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原(奈良県明日香村)という。
4月。呉人をもてなすため宴をひらいた。
(日本書紀)
雄略天皇?年。天皇の御代に呉人がやってきた。呉人を呉原に住まわせた。だからこの地を呉原という。(古事記)
解説:呉の使節をもてなす記録は即位後に自ら「使持節都督倭(中略)安東大将軍・倭国王」と名乗ったときの使節でしょう?あるいは478年宋への使者の返礼の記録が前後したものでしょうか?
古事記にも似たような記事があります。古事記は対外的な出来事は殆ど書きません。地名由来の出来事として載せたのかもしれません。

475年。高句麗の長寿王が百済を攻め首都・慰礼城が陥落、蓋鹵王が死亡。王子の文周は新羅に救援をもとめ1万の兵とともに戻ってきたが既に蓋鹵王は死亡していた。文周は熊津で即位して22代文周王となった。(三国史記)
雄略20年。高句麗王が大軍で百済を滅ぼした。それを聞いた天皇は久麻那利(こむなり、熊津)を汶洲王(文周王)に与え国を復興させた。(日本書紀)
解説:長寿王の外交作戦が功を奏したのか、過去の敗戦がよほど印象深いのか、雄略天皇は高句麗との直接対決は避けたようです。あるいは救援が間に合わなかっただけかもしれません。でも百済の復興を援助することで同盟国の勤めは果たしたつもりなのかもしれません。しかし後に東城王は「日本は助けてくれない」と考え日本離れを招くことになります。

476年。倭人・東辺を襲撃。(三国史記・新羅本記)
477年。文周王が暗殺され23代三斤王が即位した。(三国史記・百済本記)
477年。倭人・五道を襲う。(三国史記・新羅本記)

477年。倭国が宋に特産物を献上した。(宋書本記)

478年 倭王武が宋に使者を派遣。「開府儀同三司」と自称。「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」に任命された。(宋書)

479年。倭国の兵、新羅を襲う。(三国史記・新羅本記)
479年。三斤王が死去、24代東城王が即位した。(三国史記)
雄略天皇23年4月(479年)。百済の文斤王(三斤王)が死去。人質として日本に来ていた昆支王の息子・末多(また)に筑紫の兵500を与え帰国させた。末多は東城王として即位した。筑紫の安致臣・馬飼臣らは船団を率いて高句麗を討った。(日本書紀)
解説:九州(筑紫)の豪族に命じて小規模な軍を送って百済を支援したようです。高句麗を討ったとありますが、大きな戦いではなかったようです。同年、新羅とも戦っているのでもしかすると筑紫の兵が戦ったのは高句麗ではなく新羅でしょうか?

479年。宋が滅亡、南斉が建国。高帝が即位し、倭王武を鎮東大将軍に任命した。(梁書列伝)

雄略天皇23年8月。雄略天皇死去。(日本書紀)
(古事記では己巳489年)

清寧元年1月。庚申(480年?)。前年に雄略天皇が死去したのでこの年、清寧天皇が即位した。

502年。南斉が滅亡、梁が建国。梁の武帝が即位し、倭王武を征東将軍に任命した。(梁書本記)

解説:雄略天皇は日本書紀では丁酉の年(457年?)に即位したと書かれています。宋では462年に倭王興が在位していると判断して任命。任命したあと興が死んで弟の武が即位した事がわかりました。雄略天皇の即位は462年以降なのでしょうか?。

雄略天皇の在位が他国の資料から確実に西暦が分かるのは475から479年の間。国内で辛亥年(471年)に作られた剣に「ワカタケル大王」の名があるのでもう少し遡ることができるのは確実です。

479年の斉、502年の梁による任命は王朝が交代したときの事務的な作業です。倭王武は使節を派遣していません。 

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5世紀の東アジアの中の日本が見えてくる?

とりあえず日本書紀の内容が正しいかどうかは考えず他国の資料と関連ありそうな出来事をあてはめていきました。他国の王の即位・死去年数は参考になるので日本書紀と他国の資料を突き合わせるときの目安になります。

日本書紀特有の誇大表現を無視して大枠ではどんな出来事があったのかを冷静にみれば東アジアの歴史に意外とおさまりました。

4世紀から5世紀の東アジアがダイナミックに動いていた時代が見えてくるようです。

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