明智光秀 の人生を年表にしました。
生年などは通説(没年55歳)に従っています。
明智光秀のプロフィール
名 前:明智光秀(あけち みつひで)
幼 名:彦太郎
通 称:十兵衛
別 名:惟任日向守
生 年:不明
没 年:天正10年6月13日(1582年7月2日)
父:明智光綱
母:お牧の方
妻:煕子
子: 光慶、玉、他
明智光秀の年表
表は和暦・西暦・数え歳・主なできごとの順に並んでます。
斎藤家~放浪時代
大永2年 | 1522年 | 柴田勝家誕生。 | |
大永8年 享禄元年 | 1528年 | 1 | 明智光秀誕生 |
天文3年 | 1534年 | 7 | 織田信長誕生 |
天文6年 | 1537年 | 10 | 豊臣秀吉誕生 |
天文11年 | 1543年 | 16 | 徳川家康誕生 |
弘治2年4月 | 1556年 | 29 | 長良川の戦い。斎藤道三と斎藤義龍が戦う。道三は討ち死に。 |
弘治2年 | 1556年 | 29 | 明智城(岐阜県可児市)が斎藤義龍の軍に攻められ落城。光秀落ち延びる。 |
時期不明 | 越前の朝倉義景をたより保護を受ける。 称念寺(福井県坂井市)門前で暮らしたとも。 | ||
永禄6年 | 1563年 | 36 | 娘の玉(ガラシャ)が生まれる。 |
永禄8年 5月9日 | 1565年 | 38 | 永禄の政変:室町幕府第13代将軍 足利義輝が殺害される。 |
永禄9年 | 1566年 | 39 | このころ足利義昭方に味方して近江高島郡田中城の籠城戦に参加。 |
足利義昭に仕える
永禄9年 | 1566年 | 39 | 足利義昭と細川藤孝が朝倉義景を頼って越前に来る。 |
永禄10年 | 1567年 | 40 | この頃までには足利義昭の足軽衆になる。上役は細川藤孝。 |
永禄8~10年? | このころ、妹(義妹?)の御ツマキが織田信長に仕える。 | ||
永禄11年 6月23日 | 1568年 7月17日 | 41 | 義昭が織田信長に上洛するよう要請。光秀は使者の細川藤孝に同行。 |
足利義昭と織田信長の両属時代
永禄11年 9月26日 | 1568年 10月16日 | 41 | 織田信長が義昭を上洛させる。光秀も同行。 |
11月15日 | 細川藤孝とともに連歌会に出席。 | ||
永禄12年 1月5日 | 1569年 1月21日 | 42 | 本圀寺の変:三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を襲撃。光秀も防戦に参加。 |
4月 | この頃から木下秀吉、丹羽長秀、中川重政とともに京都と周辺の政務を行なう。事実上の京都奉行。 | ||
10月 | 信長と義昭の意見が衝突。信長が岐阜に帰ってしまう。 | ||
元亀元年 4月28日 | 1570年 6月1日 | 43 | 金ヶ崎の戦い:朝倉攻めの織田信長が浅井長政の裏切りにあい撤退。 羽柴秀吉とともにしんがりを務める。 |
元亀元年 4月30日 | 1570年 6月3日 | 43 | 丹羽長秀と共に若狭へ派遣される。武藤友益から人質を取り城館を破壊。 |
このころ義昭から所領として山城国久世荘(京都市南区久世)を与えられる。 | |||
元亀元年 9月 | 1570年 | 43 | 浅井・朝倉残党が比叡山に入る。 志賀の陣:兵力300~400を率いて参戦。 森可成の戦死後、宇佐山城を任される。 近江国志賀郡周辺の土豪の懐柔を担当。 |
長男 十五郎(光慶)誕生。 | |||
元亀2年 | 1571年 | 44 | 石山本願寺が挙兵。義昭・信長とともに出陣。 |
元亀2年 9月 | 1571年 | 比叡山焼き討ち 比叡山周辺の土豪の調略を担当。 戦後処理担当。 信長から旧比叡山領の志賀郡(約5万石)を与えられる。 | |
このころ坂本城(滋賀県大津市)の建設を始める。 | |||
元亀2年12月 | 1571年 | 義昭に暇願いを出す。拒否される。 | |
元亀3年4月 | 1572年 | 45 | 河内に出陣。 |
元亀3年12月 | 1572年 | 坂本城完成。 |
織田信長に仕える
元亀4年2月 | 1573年 | 46 | 義昭が挙兵。光秀は信長に従って義昭と戦う。 |
元亀4年7月 | 信長は義昭と和睦しようとしたが義昭が拒否。 | ||
義昭が槇島城(京都府宇治市)で挙兵。光秀は信長側で出陣。義昭は降伏し京を追放される。 | |||
天正元年7月 | 1573年 | 村井貞勝が京都所司代になる。光秀はその後も貞勝とともに代官を務める。 | |
天正元年8月 | 1573年 | 信長の浅井・朝倉攻めに参加。越前に向かう。 | |
天正3年 4月 | 1575年 | 48 | 高屋城(大阪府羽曳野市)の戦いに参戦。 |
5月 | 長篠の戦いに参戦。 | ||
7月 | 惟任(これとう)の姓をもらう。従五位下日向守に任官。 | ||
8月 | 越前一向一揆攻めに参戦。 | ||
信長から丹波攻略を命じられる。 | |||
10月 | 黒井城(兵庫県丹波市)の戦い。波多野秀治の裏切りで敗退。坂本城に戻る。 | ||
天正4年 4月 | 1576年 | 49 | 石山本願寺との天王寺(大阪市天王寺)の戦い。 |
5月 | 本願寺勢の攻撃を受け天王寺砦を囲まれ劣勢になる。 京都にいた信長が救援に駆けつけ勝利。 | ||
5月23日 | 過労(あるいは病気)で倒れて休養する。 | ||
11月7日 | 妻・煕子死亡。 | ||
天正5年2月 | 1577年 | 50 | 雑賀攻めに参戦。 |
10月 | 信貴山城(奈良県平群町)の戦いに参戦。 敵将・松永久秀討ち死に。 | ||
丹波攻めを再開。亀山城を攻略。 | |||
天正6年4月 | 51 | 毛利攻めの羽柴秀吉の増援として播磨に向かう。 | |
6月 | 神吉城(兵庫県加古川市)攻めに加わる。 | ||
8月 | 娘の玉(ガラシャ)が細川忠興と結婚。 | ||
10月 | 荒木村重が謀反。有岡城の戦いに加わる。 | ||
天正7年2月 | 1579年 | 52 | 包囲していた八上城を落とす。 |
黒井城を落とす。丹波国平定。 | |||
細川藤孝とともに丹後国も平定。 | |||
天正8年 | 1580年 | 53 | 丹波一国(約29万石)が加増され34万石になる。 |
亀山城・周山城完成 | |||
横山城(京都府福知山市)を修築して「福智山城」に改名。 | |||
丹後国の細川藤孝、大和国の筒井順慶らが配下に加わる。 | |||
天正9年 | 1581年 | 54 | 京都で馬揃えの責任者になる。 |
6月 | 明智家法を書いた。 | ||
8月 | 光秀の(義)妹で信長の側室だったオツマキ死亡。 | ||
12月 | 明智家中法度を作成。 | ||
天正10年3月 | 1582年 | 55 | 織田信忠の武田攻めに従軍。 |
4月 | 甲斐より戻る。 |
本能寺の変
天正10年5月 | 1582年 | 55 | 徳川家康饗応役を解任され羽柴秀吉の毛利攻め支援を命じられる。 |
6月1日 | 6月20日 | 丹波亀山城を出陣 | |
途中、軍議をひらき重臣に信長を討つことを明かす。 | |||
6月2日未明 | 6月21日 | 京都・桂川に到着。戦闘準備。 | |
6月2日曙(午前4時頃) | 信長の宿泊する本能寺を囲む。 | ||
6月2日辰の刻(午前8時頃) | 信長自刃。戦闘が終わる。 | ||
午の刻(正午ごろ) | 信忠のいる二条の御新造を囲む。信忠自刃。 | ||
山崎の戦い
天正10年 6月4日 | 1582年 6月23日 | 55 | このころまでに近江を平定 |
6月5日 | 安土城に入り金品を奪い家臣や味方に与える | ||
6月6日 | 誠仁親王の使者・吉田兼和から京都の治安維持を任される。 | ||
6月8日 | 安土を出発。 | ||
6月9日 | 宮中に参内。 | ||
6月10日 | 羽柴秀吉接近の報告をうけ淀城、勝龍寺城を修繕・迎撃準備を行う。 | ||
6月12日 | 明智軍と羽柴軍が天王山付近に布陣。 | ||
6月13日 | 午後4時ごろ戦闘が始まる。 | ||
光秀・勝龍寺城に退却。 | |||
坂本に向かう途中落ち武者狩りで死亡。 | |||
6月14日 | 明智光満が安土から坂本城に入る。 | ||
6月15日 | 坂本城が堀秀政に攻められ光満が防戦するが落城。光秀の妻子、明智光満らが自害。 | ||
6月17日 | 斎藤利三が潜伏先の堅田で生け捕りになり処刑される。 |
こうしてみると意外と晩年に活躍した人なのがわかります。
もしこれが没年67歳説だとどうなるでしょうか。50歳を越えて織田信長に仕え、50代・60代を織田軍団で過ごして戦場を駆け巡っていたことになります。当時としては高齢での活躍です。
コメント
現在、滋賀県大津市の大津市埋蔵文化財調査センターで、大津城跡・坂本城跡・膳所城跡の出土遺物が展示されています。