「べっぴんさん」で尾上潔が坂東営業部を復活させようと奮闘してると聞き、かつての仲間が集ってきます。長谷川、秋山、笹井でした。
モデルとなった尾上清にも、佐々木営業部を復活させるときには仲間がいました。
石津謙介はすでに紹介したので他のメンバーに注目してみたいと思います。
どのような人たちと一緒に佐々木営業部を復活させレナウンへと発展させたのでしょうか。その一部を見てみましょう。
鈴木達雄
戦前から佐々木営業部に努めていました。尾上清とは同期の入社です。
佐々木営業部は東京編織株式会社(レナウン・メリヤス工業)という関連会社がありました。戦時中は軍需用の衣類を作る工場となっていました。
戦後、鈴木達雄は東京編織株式会社の社長となって東京編織株式会社を再開させました。とはいうものの、大規模な設備はなくミシンで縫うだけの町工場のようなものでした。小さいながらも縫製工場として再開していました。
その後、尾上清から鈴木達雄のもとに連絡があります。清は佐々木営業部を復活させようと考えていました。そこでまずは、佐々木営業部の系列で唯一生き残っていた東京編織株式会社を本格的な工場に成長させて将来的には佐々木営業部の製造部門にしようと考えたのです。
達雄も清の考えに賛成しました。清は有信実業という小売会社を作って東京編織の仕事を増やし、設備投資も行います。
昭和22年(1947年)。佐々木営業部は再開します。達雄は佐々木営業部の取締役となりました。
昭和27年(1952年)。東京編織はレナウン工業と名前を変えます。達雄はレナウン工業の社長を務めました。
昭和50年(1975年)。尾上清らとともに創業時代からの幹部は引退しました。
ものを作る立場から尾上清やレナウンを支えたのが鈴木達雄なんですね。
本間良雄
本間良雄も戦前の佐々木営業部に努めていました。尾上清や鈴木達雄とは同期入社です。年齢も近く、気の合う仲間として付き合いがあったのかもしれませんね。
昭和22年(1947年)。佐々木営業部は再開します。良雄は佐々木営業部の専務取締役となりました。
昭和30年(1955年)。佐々木営業部はレナウン商事に名前が変わります。
昭和31年(1956年)。良雄はレナウン商事の社長になりました。尾上清は会長になりました。
昭和50年(1975年)。尾上清ら創業時代からともに働いていた幹部社員は引退しました。量良雄はレナウン会長として名前は残りましたが、経営には関わっていないようです。
昭和54年(1979年)。会長の座を譲りました。
戦後、佐々木営業部が復活したときは20数名(25名とも)の会社でした。尾上清らとともに、同期の幹部たちが協力して佐々木営業部からレナウンへと発展させていたんですね。もちろん、ここに上げた人以外の人たちもいたからこそ発展したのは間違いありません。
そんな尾上清ともに頑張った人たちたいた。ということを表現しているのが、べっぴんさんんの、長谷川、秋山、笹井なんですね。
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