篤姫(於一)が将軍御台所になった本当の理由・紆余曲折の輿入れ問題

島津家家紋

天璋院篤姫は13代将軍・徳川家定の御台所(正室)になりました。
外様大名の島津家の分家の姫が将軍御台所になるなんて不思議に思われるかもしれません。一般には、一橋慶喜を次の将軍にするため大奥の工作のために島津斉彬が送り込んだとされることが多いです。

ところがもともとの理由は一橋慶喜とは関係ないのです。確かに篤姫が大奥に入ることが決まると、一橋派は将軍跡継ぎ問題に利用しようとしました。

しかし最初のきっかけは、将軍家や近衛家の都合で島津家に輿入れの話がもたらされたのでした。

篤姫が徳川家定の御台所になったいきさつを紹介します。

 

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 於一・篤姫とは

 

名前:島津篤子(しまづあつこ)、一子(かずこ)、近衛敬子(このえすみこ)
幼名:島津於一(しまづおかつ)
通称:篤姫(あつひめ)
法名:天璋院(てんしょういん)
生 年:天保6年12月19日(1836年2月5日)
没 年:明治16年(1883年)11月20日
生誕地:薩摩国鹿児島城下(現在の鹿児島県鹿児島市)
父:島津忠剛 
母:島津久丙の娘
子:なし

篤姫の実家は一門家と呼ばれる薩摩藩主島津家の分家です。今和泉家。和泉家ともいいます。

四代藩主・島津忠宗の次男・忠氏が和泉庄をもらって独立したのが今和泉家(和泉家)の始まりです。

篤姫は今和泉家当主・島津忠剛の長女として鹿児島城下の屋敷で産まれました。島津家の系図によれば天保6年12月19日の産まれだとされます。和泉氏系図では天保7年2月19日産まれになってます。

今和泉時代の名前は「於一(おかつ)」といいました。

今和泉家の領地は1万3000石もありました。とはいえ他藩は脱穀した米で石高を測るのに対して薩摩の石高は籾で測りますから実際の収入は半分程度。篤姫の父・忠剛は雨漏りがするくらいだと、家老の調所広郷に苦しさを訴えています。

於一も幼い頃から質素な生活をしていたようです。上級武士とその家族は城下で暮らすのが普通でした。一門も例外ではありません。今和泉家も鹿児島城下に家をもっていました。篤姫も今和泉ではなく鹿児島で育った可能性が高いです。

篤姫の人柄

篤姫に会ったことのある福井藩主・松平慶永は「丈高くよく肥えている」と書き残しています。肥えているとは太っているという意味ではなく「健康的」「丈夫そうな体」という意味のようです。当時の女性としては背が高く健康的な体つきだったのでしょう。

性格については「忍耐力があり、幼少のころから怒ったところをみたことがない。腹が座ってるようで軽々しいこともなく、穏和で人と接するのが上手」とも書き残しています。

将軍家からやってきた縁談話

島津分家の姫として生涯を終えるはずだった於一。将軍家に輿入れすることになります。

嘉永3年(1850)ごろ。11代将軍徳川家斉の御台所広大院に仕える尼から島津家に年頃の娘はいないかと問い合わせがありました。将軍世子・家定(後の13代将軍)の正室が次々と亡くなったため後任の正室を探していたのです。京の公家から正室を迎えたものの、病弱ですぐに亡くなるので公家の娘はもう嫌だというのです。

広大院は薩摩藩8代藩主・島津重豪の娘です。自分の実家から丈夫な姫を迎えようというのです。広大院も若い頃は「お篤」と名のっていました。於一が篤姫と名乗るのも広大院にあやかったためです。広大院が将軍家に輿入れしていなければ篤姫が御台所になることはなかったでしょう。

しかし当時の島津家。島津斉興や斉彬には年頃の娘はいません。

その後、近衛忠熙からも家定の再婚相手にふさわしい人はいないかと問い合わせがありました。

広大院と血の繋がりのある娘を届けよ。そうすれば近衛家の養女にした上で家定に嫁がせるというのです。広大院も将軍家に輿入れする前に近衛家の養女になっていました。近衛家と島津家、徳川家も縁があるのです。

将来将軍になる家定の御台所は魅力的です。でもそのころ島津家ではお由羅騒動で斉興派と斉彬派が対立していました。なかなか話が進みません。

嘉永4年(1851)。斉彬が藩主になり、ようやく将軍家御台所の話が進み始めました。
斉彬には年頃の娘がいませんから親族の中から候補になる娘を探しました。弟の久光には娘(お哲)がいたので候補になりました。

斉彬は藩主になって初めて薩摩に入りました。多くの者と会っているうちに叔父・島津忠剛の娘・於一が気に入りました。於一は頭がよく、漢文の書物を読むほどでした。とくに丈夫な娘というのが良かったのかもしれません。病弱な娘を嫌って武家の娘を探しているのですから、於一はその条件にピッタリだったのでしょう。

そこで斉彬は斉興を説得して於一を将軍家御台所に決めたようです。

篤姫は斉彬の実子ということになっていた

嘉永5年(1852)。ところが、斉彬は将軍家から驚くべきことを聞かされます。御台所ではなく側室だというのです。

斉彬は気になって老中阿部正弘らに相談したところ「斉彬の実子なら正室でよい」という返事をもらいました。そこで斉彬は於一を実子だと言い張ることにしました。親交のあった先代藩主・伊達宗城にあてた手紙には「事情があって一門家にあずけていたが、自分の娘として披露した」と書かれています。

斉彬は近衛忠熙からも養子であることは隠して実子で押し通せとアドバイスを受けていました。それもあって実子で押し通したようです。

3月。於一は島津斉彬の養女になり 一子(かずこ)、後に篤子(あつこ)と名乗ります。

幕府には島津斉彬の「実子」として届け出されました。

幕府の混乱で延期

6月5日。篤姫は鹿児島城下の今和泉邸を出て、鹿児島城(鶴丸城)に入りました。

ところが6月3日にはペリーが来航。6月22日には将軍家慶が死去。と幕府の混乱が続きます。斉彬は「縁談話はだめかもしれない」と諦めかけたといいます。もともと斉彬は何が何でも将軍家に輿入れさせようとは思ってなかったようです。広大院の縁を頼りに期待はしてみたものの、もともとが無理な話。だめなら支藩の佐土原藩主・島津忠寛に嫁がせればよいと考えていました。

しかし老中の阿部正弘から篤姫を早く江戸に来させるようにと指示がありました。

8月21日。篤姫は鹿児島を出発。途中、京の近衛邸に立ち寄りました。
10月29日。江戸の薩摩藩邸に到着しました。

幕府はペリーの問題で忙しくそれどころではありません。御所が火災で消失して幕府が再建することになり。さらに忙しくなりました。

なかなか篤姫の輿入れは進みませんでした。

そうしている間に薩摩では篤姫の実父・島津忠剛が死去します。

輿入れを待たされている間に斉彬に心境の変化があったようです。

篤姫が江戸に来たときは輿入れは決まったものと領民や人々は噂しました。しかし輿入れできないとなれば変な噂が立つかもしれません。領民や家臣達の士気にもかかわります。

篤姫をせっかく江戸まで連れてきたのです。斉彬は何がなんでも篤姫を将軍御台所にしようと思うようになりました。熱心にあちこちに働きかけました。

安政2年秋。幕府から12月には迎えたいとの返事を得ましたが。10月におきた安政大地震で延期になってしまいました。

安政3年。ようやく篤姫の輿入れが決まり篤姫は近衛家の養女となりました。篤姫には近衛敬子(このえすみこ)の名が与えられました。でも公家としての名前はあまり使われません。本人は篤子と名乗ることが多かったようです。

斉彬は近衛家から篤姫付きの老女にするため幾島を呼び寄せました。

正式に輿入れが決まり喜んだ斉彬は豪華な婚礼道具を揃えました。福井藩主・松平慶永が豪華すぎるのではないかと心配したくらいですが。斉彬は将軍家との婚礼なのだから金がかかるのは当然と笑ったといいます。

一橋慶喜の父・徳川斉昭が篤姫輿入れに反対

ところが篤姫の輿入れに反対する者もいました。水戸の徳川斉昭(一橋慶喜の父)です。徳川家康に敵対した島津家から御台所を迎えるとはけしからん。島津の娘に家定生母本寿院や(大奥にいる)旗本の娘が頭を下げるのは恥だ。というのです。

ずいぶんと昔のことにこだわるようですが、徳川家ということでプライドは高かったのでしょう。

この時点までは篤姫の輿入れと一橋慶喜の擁立は関係なかったのです。

一橋慶喜擁立に利用する勢力の出現

しかし、篤姫が将軍家に輿入れするのが決まると。一橋慶喜の擁立に利用しようとする勢力も出てきました。その代表が松平慶永です。老中・阿部正弘も最初からそのつもりで動いていたようです。

もともと病弱な家定には跡継ぎが望めないので次の将軍候補が問題になっていました。

水戸の徳川斉昭をはじめ、老中・阿部正弘、松平慶永、島津斉彬は一橋慶喜の擁立を支持していました。

斉彬は一通りは篤姫に将軍跡継ぎ問題を説明したようですが、篤姫自身が積極的に動くのはまずいと考えていたようです。篤姫には将軍御台所としての務めを果たしてくれればそれでよい。と考えていたのではないでしょうか。篤姫自身も一橋慶喜の擁立にむけてとくに活動はしていません。

大奥に入ったあと一橋慶喜の擁立にむけて積極的に動いたのは篤姫付きの老女・幾島です。

安政3年12月(1856年)。篤姫は江戸城大奥に入りました。

将軍家定33歳。篤姫21歳。

将軍御台所としての篤姫の人生が始まります。

最初は島津家・徳川家の縁と健康な妻がほしいという願いから始まった篤姫の輿入れ問題。結果的に将軍跡継ぎ問題に利用されることになります。

篤姫本人は大奥に入ったあとも一橋慶喜擁立にはあまり加担せずに暮らしたようです。

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