伊牟田尚平・ヒュースケンの殺害と江戸市中で破壊工作を行なった倒幕派

江戸時代

伊牟田 尚平(いむだ しょうへい)は、江戸時代末期(幕末)の薩摩の武士。

強硬な尊王攘夷派で倒幕をめざしていました。

アメリカ公使館員のヒュースケンの殺害や、西郷隆盛の命令で江戸市中の破壊工作など様々な事件に関係しています。伊牟田 たち御用盗は破壊工作を繰り返し、薩摩藩邸焼き討ち事件を引き起こしました。

その騒動が結果的に戊辰戦争の引き金になります。

伊牟田 尚平とはどんな人だったのでしょうか。

 

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伊牟田尚平 とは

 

名 前:伊牟田 尚平(いむだ しょうへい)
通称:伊勢吉、別名:永頼、相良武振
 :茂時

生 年:天保3年5月25日(1832年6月23日)
没 年:明治2年7月19日(1869年8月26日)
父: 伊牟田倉左衛門

 

おいたち

天保3年(1832年)5月。伊牟田 尚平が薩摩国(鹿児島県)で誕生。

父は薩摩の陪臣(大名の家臣の家臣) 伊牟田倉左衛門。
伊牟田倉左衛門は薩摩藩士で喜入郷の領主・肝付兼善の家臣です。

15歳の時。鹿児島城下に出て、島津斉彬の侍医・東郷泰玄に医学を学び、長崎で蘭学を学ぶ。

安政元年(1854年)。伊牟田は江戸に出ました。儒学者の塩谷宕陰や安井息軒たちから儒学を学びました。大山綱良・美玉三平・高崎五六・伊地知正治たち薩摩藩士と親交を深めました。さらに諸藩の有志とも交流。国の将来について議論しました。

安政3年(1856年)。肝付兼善が藩命で江戸に来ました。
このとき肝付兼善は伊牟田が諸藩の有志と交流しているのを知り、幕府に疑われるのを恐れて伊牟田を薩摩に帰しました。

安政4年(1857年)。伊牟田は脱藩。大坂や京都で田中河内介・桜任蔵の勤王運動に参加します。

安政5年(1858年)。安政の大獄が起きました。幕府の追及を逃れて奥州に逃げ、名前を変えて医師として働きました。

でもそこでも幕府の役人に追われてしまいます。

安政6年(1859年)6月。薩摩に戻りました。領主・肝付の命令で謹慎させられます。

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尊王攘夷・倒幕活動

虎尾の会のメンバー

安政7年(1860年)3月。桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺。

それを知った島津久光は江戸に国老関山糺を派遣。江戸の様子を調べさせました。このとき小松帯刀・大久保利通らに付き従って伊牟田も江戸に行きました。

江戸に出た伊牟田は水戸藩士や清河八郎・安積五郎・山岡鉄太郎と交流。

清河八郎らが中心になって尊王攘夷派のグループ「虎尾の会」が結成。伊牟田も参加。中心メンバーになりました。

ヒュースケン暗殺

万延元年(1860年)12月4日。樋渡八兵衛たちとともにアメリカ公使館でタウンゼント・ハリスの通訳をしていたヘンリー・ヒュースケンを暗殺しました。

その後も外国人への襲撃を繰り返しました。

幕府が過激派の取締を強化。

各地で倒幕活動

文久元年(1861年)5月。清河と共に江戸を出て、川越の西川敬輔(練造)の元に潜伏しました。その後、水戸の住谷寅之介の元に潜伏しました。そこで同じ志の水戸藩士や薩摩藩士と相談。京に行って朝廷に訴えることを決意。

また、老中・安藤信正が孝明天皇を廃位させるため塙忠宝に廃帝の前例を調査させ、和宮親子内親王の降嫁を計画しているとの噂を聞き、それを阻止しようと考えます。

11月。清川たちとともに京都に行き、公家中山家に仕える田中河内介を訪問。田中河内介は尊王攘夷派で和宮親子内親王の降嫁には反対していました。

伊牟田は九州の志士を集め、関東の志士と共に討幕・攘夷を行うことを決めました。

さらに清河や安積と共に肥後に向かい松村大成・平野国臣・真木和泉たちと交流。島津久光の上洛に合わせて挙兵しようと話し合いました。

文久2年(1862年)1月。平野国臣と共に薩摩へ戻り、島津久光に「尊攘英断録」を提出して武力倒幕を提案します。しかしこの時の久光にそのつもりはありません。

福岡藩主で久光の大叔父・黒田斉溥が倒幕に反対していると聞き、福岡藩士の平野と共に黒田斉溥に会いにって説得しようとしました。ところが黒田斉溥は伊牟田の行動は過激で危険だと考え、伊牟田は薩摩に送り返されました。

伊牟田は喜界島に流罪なりました。

その後、平野たちは京に向かい文久2年4月23日(1862年)に寺田屋事件が起こりました。

元治元年(1864年)3月。伊牟田は釈放されて種子島に移りました。

その後、京都に呼ばれて西郷隆盛の元で働くことになりました。

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御用盗の江戸騒擾作戦

慶応3年(1867年)5月。「薩土討幕の密約」。薩摩と土佐の武力倒幕の同盟が成立。

慶応3年(1867年)10月。土佐藩士・乾退助が保護していた水戸の勤王派浪士・中村勇吉、相楽総三たちが江戸の薩摩藩邸に移されます。

御用盗の結成

西郷隆盛たちは開戦の口実を作るため江戸幕府を挑発しようと考え「御用盗」を組織。伊牟田尚平は益満休之助は御用盗の中心メンバーになりました。

10月3日。伊牟田は西郷隆盛の命令をうけて江戸にやってきました。

伊牟田たちは薩摩以外にも水戸の中村勇吉や元土佐勤皇党、倒幕・尊王攘夷派の浪士を全国から集めました。御用盗は約500名ほどの組織になりました。

慶応3年10月13日。倒幕の密勅。密勅をうけて薩摩はすぐに行動を開始。

慶応3年10月14日。大政奉還。

大政奉還をうけて倒幕の口実がなくなったので吉井友実は益満と伊牟田に工作の一時中止を書状で指示しました。

でも伊牟田と益満は止めません。

伊牟田たち御用盗は江戸市中で放火、略奪、暴行を行いました。攻撃対象になったのは「幕府を助ける商人と浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、輸入品を扱う商人、金蔵をもつ富商」です。

周囲りから見ればただのテロ行為ですが、伊牟田は正義の戦いだと思っていました。

ところが御用盗の活動に便乗した強盗や辻斬りも起こります。江戸の住民たちは薩摩のせいだと噂し合いました。

江戸薩摩藩邸の焼討事件

老中・稲葉正邦、勘定奉行・小栗忠順が薩摩藩邸の御用盗の引き渡しを要求すると、薩摩藩は引き渡しを拒否。

さらに他の浪士たちも挙兵。騒ぎは大きくなっていきます。

12月25日。幕府はこれらの騒ぎは薩摩の仕業と判断。庄内藩江戸藩邸の留守居役松平親懐に賊徒の逮捕を命令。従わなければ江戸薩摩藩邸に討ち入ってでも捕らえよ。と命令が出ました。

こうして庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ち。この時に益満休之助は逮捕されましたが。伊伊牟田尚平と相楽総三は逃走に成功しました。

西郷隆盛は東征の先遣隊を派遣。相楽総三の組織した赤報隊もそのひとつでした。ところが。赤報隊は新政府に偽官軍として逮捕・処刑されました。

伊牟田尚平は相楽総三が偽官軍にされたことを知ると救出するため京都から下諏訪へ向かいましたが間に合いませんでした。

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伊牟田尚平の最期

慶応4年(1868年)6月15日。上田修理(務)と共に近江長浜の篤志家の豪商、今津屋弥十郎の家に強盗に入りました。

裁判記録によると、伊牟田たちは主人の耳を引きちぎって3,996両を強奪、一人を殺害する。弥十郎はこのときの怪我で死亡しました。

明治2年(1869年)7月。「名字帯刀取り上げの上、梟首」の判決を受けて切腹。京都三条粟田口で晒し首になりました。

大正12年(1923年)8月。生誕地の鹿児島市喜入の有志が「伊牟田尚平の誕生地記念碑」を建立。

この記念碑によると。京都や大津でおきた辻斬りや盗は伊牟田の部下の犯行で。伊牟田はその責任をとって明治元年(1868年)に京都二本松の薩摩藩邸で自刃と書かれています。

本人がやったのか部下がやったのかはともかく。京都でおきた強盗が原因で命を落としたようです。

 

ドラマ

新選組! NHK大河ドラマ 演:中村まこと

いちげき NHK正月時代劇 演:杉本哲太
原作小説 永井義男「幕末一撃必殺隊」
漫画 松本次郎「いちげき」

 

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