島津久光・薩摩の国父は倒幕派から新政府の抵抗勢力になった

島津久光は幕末の薩摩を動かし倒幕に導いた張本人でありながらあまり目立たない存在です。

当初は斉彬の公武合体路線を進めた久光。しかし徳川慶喜とはともに政治を出来ないと判断し、倒幕に変更します。

一説には新しい将軍の座をねらっていたとも噂されますが本当のことはわかりません。

倒幕運動は結果的に久光の思惑を外れ、薩摩藩をも消し去ることになります。明治維新後は明治政府の行う急激な近代化に対する抵抗勢力となった久光。

島津斉彬と比較され過小評価されがちな島津久光ですが、いったいどんな人だったのでしょうか。

 

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 島津久光(しまづ ひさみつ)とは

名 前:島津久光(しまづ ひさみつ)、忠教(ただゆき)
通称・官名:又次郎
幼名:普之進(かねのしん)
生 年:文化14年10月24日(1817年12月2日)
没 年:明治20年(1887年)12月6日
父:島津斉興 
母:お由羅
正室:千百子(島津忠公の娘)
側室:山崎武良子
子:島津忠義、久治、珍彦、忠欽、忠済など

文化14年10月24日。鹿児島城で生まれました。

文政元年(1818年)。種子島久道の養子になりました。

文政8年(1825年)。島津家に戻りました。

重富島津家の次期当主・島津忠公の娘・千百子と結婚。重富島津家の婿養子になりました。重富邸で暮らします。

文政11年(1828年)。元服して忠教と名乗ります。

お由羅騒動

重富島津家の家督を相続した忠教でしたが、本家では島津忠興の後継ぎを巡って斉彬派と忠教派が対立していました。

忠教と斉彬は仲が悪かったわけではなく、回りの者が勝手に争っていたようです。

嘉永4年(1851年)。父・忠興が隠居、兄の斉彬が藩主になりました。

安政5年(1858年)。斉彬が死去。忠教の息子・忠徳(後の忠義)が藩主になりました。忠徳は茂久と改名しました。

父・忠興が茂久の後見人になりました。

忠興の死後は、忠教が後見人になり藩の政治を行いました。

文久元年(1861年)。島津本家を相続。名を忠教から久光に改めました。

久光は藩主の父・国父として大きな力を得ました。

小松清廉(帯刀)を重く用いて、大久保利通ら精忠組を採用しました。しかし精忠組でも西郷隆盛とは仲が悪く1862年には無断で上京した罪で島流しにしました。

元治元年(1864年)。家臣らの嘆願で西郷隆盛を復帰させましたが、悔しさの余りくわえていた銀のキセルに歯型がついたといわれます。

久光の上洛

文久2年(1862年)公武合体運動を進めるため、兵を率いて京に向かいました。このとき久光は公武合体派で倒幕の意志はありませんでした。しかし過激な尊皇攘夷派の中には倒幕を考えるものもいました。

寺田屋事件

薩摩藩士の過激な尊王攘夷派が暴走。有馬新七らが幕府や公家の要人を暗殺して、その首を久光にとどけて倒幕を促そうとしていることが発覚しました。久光は大久保利通らを派遣して説得させますが、失敗。

京都滞在中の4月23日。伏見の寺田屋に集まった有馬新七らを粛清しました(寺田屋事件)。たとえ家臣であっても過激分子は処分するという強い姿勢は、結果的に朝廷からの信頼を高めることにつながりました。

坂本龍馬が襲撃された寺田屋も同じ宿です。どちらも寺田屋事件(寺田屋騒動)といいます。

久光の働きかけで朝廷は幕府に改革の勅使を送ることになりました。久光は勅使の護衛として兵を率いて江戸に向かい改革案を実現させました。

その改革内容とはこのようなものでした。
・将軍・徳川家茂の上洛。
・薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩からなる五大老の設立。
・一橋慶喜の将軍後見職。前福井藩主・松平春嶽の大老職就任。

目的を達成した久光は薩摩に戻ります。

生麦事件

ところが、帰路の途中。イギリス人が久光一行の行列の前を横切ったため、藩士がイギリス人を殺害。生麦村付近でおきたことから生麦事件といわれます。この騒動は後に薩英戦争に発展します。

生麦事件の賠償金として幕府からイギリスに賠償金10万ポンドを渡しました。しかし事件を起こしたのは薩摩なので、あとはイギリスが薩摩と交渉するように言いました。

薩英戦争

6月。イギリスは薩摩に責任をとらせるため、軍艦を引き連れて薩摩にやってきました。イギリスは事件の関係者の逮捕と処分を要求、慰謝料として25000ポンドを要求しました。

薩摩藩は薩摩に責任はないと返答。

食料と水の補給のためやってきたイギリス軍に対して、奇襲作戦を計画しますが失敗。

久光と茂久らは鹿児島城がイギリス艦隊の射程内にあることから城から退去。西田村の千眼寺に移動しました。

イギリス軍は薩摩の汽船3隻を奪いました。これに激怒した薩摩軍との間で戦闘が始まりました。

イギリス艦隊は1隻大破、中破2隻、死傷者63名を出して撤退しました。

薩摩側の被害は大きく薩摩の砲台の多くが壊滅状態、城下の10分の1が焼けました。

被害は薩摩の方が大きかったものの、イギリス艦隊も勝利とはいえず、作戦目的を達成できずに撤退したのは敗北にも近いものでした。

この戦いによって欧米では「日本は侮ることは出来ない」との意見も出るようになりました。

イギリスは薩摩を高く評価して薩摩に接近。薩摩も欧米の強大さを思い知りイギリスとの友好関係を深めることになります。

八月十八日の政変

その後、長州藩を中心にした過激な尊王攘夷派が朝廷を動かすようになりました。

孝明天皇からの要請で久光は上洛し、会津藩と協力して長州藩を京から追放しました。

公武合体の挫折

久光の呼びかけで一橋慶喜、松平春嶽、前土佐藩主・山内容堂、前宇和島藩主・伊達宗城、会津藩主・松平容保(京都守護職)が集められ、参預会議が開かれました。

慶喜と、久光・春嶽・宗城が対立。意見はまとまりませんでした。結果的に久光たちが慶喜の意見を認める事になりましたが、両者の対立は続き参預会議は機能しなくなりました。久光は慶喜と共に政治を行うことはできないと判断。倒幕を決意したといわれます。

久光は小松帯刀や西郷隆盛に京を任せて薩摩に戻りました。

久光が薩摩に戻ったあと、禁門の変、第一次長州征討、薩長同盟、第一次長州征討、徳川慶喜の将軍就任、孝明天皇の死去などが起こりました。

長州の処分を巡って薩摩は徳川慶喜と対立。慶喜とは共に政治を行うことが出来ないと判断した久光は武力倒幕を決意します。

久光は病になり薩摩に戻りました。

10月14日。久光・茂久に討幕の密勅が出ました。
武力を使って徳川慶喜を倒せという命令です。
しかし、同じ日に徳川慶喜が大政奉還を行いました。

挙兵の大義名分がなくなってしまいます。

10月15日。朝廷から久光に上洛の要請がありました。久光は病のため、藩主・茂久が兵を率いて薩摩を出発。京都に向かいました。

結果的には、ここで久光が倒幕活動の第一線を退いたことで、新政府への影響力がなくなってしまったとも考えられます。

明治維新後

12月9日。王政復古が宣言され新政府が設立されました。

薩摩軍はその後、新政府軍の一員として伏見鳥羽の戦いを勝ち、戊辰戦争に突入しました。

明治維新のあとも薩摩では久光が実権を握っていました。しかし明治政府の行う改革には批判的でした。

明治3年(1870年)。大久保利通が薩摩に説得に来ましたが、久光は新政府に協力しようとしませんでした。

廃藩置県が行われると、激怒して一晩中自宅の庭で花火を打ち上げ続けました。

廃藩置県を進めた西郷隆盛を裏切り者と罵ったといいます。

明治政府から分家するように命令があり、島津忠義(久茂から改名)のものとなっていた10万石の5万石に減らされました。

11月14日。都城県が設置され、薩摩藩の領地は鹿児島県と都城県に分断されました。これを長州の陰謀だと考えた久光は自ら鹿児島県令を希望しました。

明治6年(1873年)。内閣顧問になりました。

しかし古い考えの久光は新政府と意見があわず辞めてしまいます。

明治7年(1874年)。左大臣になりましたが、権限はなく形だけのものでした。

明治8年(1875年)。左大臣を辞職して、翌年鹿児島に戻り隠居しました。

廃刀令に反対し、髷を切らず、帯刀、和装のまま一生を終えました。

明治10年(1877年)。西郷隆盛が決起して西南戦争が起こりました。明治政府からは上京するように命令がありましたが、久光は中立を表明。かわりに四男・珍彦、五男・忠欽を京都に派遣しました。

被災をさけるため桜島に避難しました。

久光は明治政府の行う急激な近代化には反対し続けました。かといって、明治維新の功労者でかつての薩摩藩の国父を処分できません。明治政府は久光の扱いにあたまをかかえ最高の位を与えました。

明治20年(1887年)12月6日死去、享年71歳。

国葬が行われました。

久光は頭はよかったものの、古い考えに執着し新しい国の形を理解できませんでした。しかし斉彬なきあと、朝廷から信頼を得て薩摩藩を倒幕派の中心勢力にしました。

西郷隆盛と仲が悪かったことから、物語では無能で悪人にされてしまうこともありますが。幕末の一時期、日本で最も存在感を持っていた大名クラスの人物だったのは確かでしょう。

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