後鳥羽天皇(ごとばてんのう)神器のない即位と院政を始めるまでの経緯

天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は日本の第82代天皇です。

源平合戦の真っ最中。安徳天皇が平家に連れられて都を出ていった後、4歳で即位しました。

その後は後白河法皇、九条兼実、源通親らが朝廷の権力を握っていました。

後鳥羽天皇は力のない天皇でした。

三種の神器の草薙剣がないまま即位したので、正当性に劣等感をもつことにもなりました。

しかし源通親の死後、対抗できるライバルがいなくなり本格的な院政を開始、やがて治天の君とよばれる様になります。

院政を始めるまでの後鳥羽天皇とはどんな人だったのでか紹介します。

 

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後鳥羽天皇 とは

 

名 前:尊成(たかひら・たかなり)
諡号:後鳥羽天皇(ごとばてんのう)
別名:隠岐院、顕徳院
生 年:1180年8月6日(治承4年7月14日)
没 年:1239年3月28日(延応元年2月22日)
父:高倉天皇(第80代天皇)
母:坊門殖子(七条院)
中宮:九条任子(宜秋門院)

子:為仁親王(土御門天皇、道助入道親王(長仁親王)、守成親王(順徳天皇)ほか

おいたち

平安自体の治承4年7月14日(1180年8月6日)に京都の五条町亭で生まれました。

尊成(たかひら、もしくは たかなり)と名付けられました。

父は高倉天皇。

母は 坊門殖子。藤原(坊門)信隆の娘です。

寿永2年(1183年)7月25日。木曾義仲の軍が京都に迫り、平家は安徳天皇と三種の神器を持って京都を出て西国に逃れました。

天皇が都に不在になってしまったので、後白河法皇と公卿たちが話し合い新しく天皇を立てることが決定。

木曽義仲は北陸宮を次の天皇にと意見を出していましたが。

後白河法皇は安徳天皇の異母弟・尊成親王を次の天皇に選びました。丹後局の推薦もあったといいます。このとき尊成親王は4歳。

寿永2年(1183年)8月20日。尊成親王は践祚(せんそ・天皇の地位を受け継ぐこと)。

元暦元年(1184年)7月28日。即位式が行われました。三種の神器がないまま即位しました。

文治元年(1185年)までは安徳天皇が在位しているので、2年ほどは一時的に天皇が二人いることになります。

神器の剣がない天皇

文治元年(1185年)。壇ノ浦で平家が滅亡。安徳天皇が死去。神器のうち八咫の鏡と八尺瓊勾玉は戻ってきました。でも草薙剣は戻ってきませんでした。朝廷は壇ノ浦で捜索を行いましたが草薙剣は見つかりませんでした。

後鳥羽天皇は「神剣のない天皇」になってしまいました。この時代、世の中の乱れは「君主に徳がないから」という考え方がありました。「宝剣のない天皇」は後鳥羽天皇にとって大きな劣等感になったともいわれます。

暫くの間、伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣が宝剣の代理「形代の剣」とすることにしました。後の土御門天皇や順徳天皇の即位にはこの形代の剣が使われています。承元4年(1210年)にはこの形代の剣が正式に三種の宝器の剣として認められました。

とはいっても。即位して間もないころの後鳥羽天皇はまだ幼いです。

建久3年(1192年)3月までは後白河法皇による院政が行われました。

後白河法皇の死後は関白・九条兼実が中心になって朝廷の政治が行われました。

建久七年の政変

関白・九条兼実は鎌倉幕府との関係を改善、源頼朝に征夷大将軍の位を与えました。治承・寿永の乱(源平合戦を含む内乱)で荒れ果てた南都(奈良)の復興にも力を入れ。最初は、後鳥羽天皇も九条兼実の手腕を高く評価していました。

しかし摂関家の嫡流に生まれた九条兼実は上皇のもとで力をもっている院近臣(上皇の側近や部下)が嫌いでした。九条兼実は次々に院近臣たちを解任させました。丹後局の反感をかいます。

伝統や古い格式にこだわる九条兼実は些細なミスで罰したり、下級貴族を見下して実績をあげた官僚を昇進させなかったりしました。そのことが他の貴族からの反発を受けます。

さらに兼実と親密だった源頼朝はこうした朝廷の動きを知ってか、丹後局に接近。

九条兼実と源頼朝の関係も疎遠になりました。

後鳥羽天皇も九条兼実の権力の大きさには不満を持っていたようです。

孤立していく九条兼実は娘の中宮任子と後鳥羽天皇の間に皇子が生まれることを期待しましたが。

建久6年(1195年)8月。後鳥羽天皇と中宮任子の間に昇子内親王(のぼるこないしんのう)が誕生。

建久7年(1196年)12月。後鳥羽天皇と在子(ありこ、源通親の養女)の間に為仁親王(後の土御門天皇)が誕生。

源通親と丹後局たちは九条兼実の追い落としを計画。

建久7年(1196年)11月23日。源通親は中宮・任子を内裏から退去させ、25日九条兼実は関白を解任しました。すでに朝廷での人望を失った九条兼実に抵抗する力はありませんでした。

源通親は九条兼実を流罪にしようとしましたが。後鳥羽天皇はそれほどの重罪ではないと反対。流罪にはなりませんでした。

こうして九条兼実は失脚、彼の派閥も力を失います。

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上皇になる

その後、朝廷の政治を主導した源通親は九条兼実のもとで冷遇されていた官僚達をとりたてました。

やがて源通親は養女・在子の生んだ為仁親王を即位させようと考えました。

建久9年(1198年)1月11日。源通親は幕府や公家たちの反対を押し切って後鳥羽天皇を譲位させ、為仁親王(土御門天皇)を即位させました。

このとき後鳥羽天皇は18歳。土御門天皇は3歳。

後鳥羽上皇になっても源通親は朝廷での力を維持していました。

政治的な力をもたない後鳥羽上皇はこのころ和歌に興味をもち、急速に和歌の道を目指したと言われます。

正治元年(1199年)。源頼朝が死去。

正治2年(1200年)4月。後鳥羽上皇の第三皇子・守成親王(順徳天皇)が皇太弟になりました。

源通親は水無瀬の別荘を持っていました。水無瀬の別荘を訪れた後鳥羽天皇は、この場所を気に入って源通親から別荘を譲り受けました。離宮・水無瀬殿としました。

建仁元年(1201年)。武士の城長茂が京で挙兵。城長茂は後鳥羽上皇と土御門天皇がいる仙洞御所に来ると倒幕の宣旨を要求しましたが、拒否しました。京都守護から城長茂討伐の宣旨が要求されると宣旨を与え城長茂を討伐させました。

建仁2年(1202年)。源通親が死去。

源通親の死によって後鳥羽上皇に対抗できる者がいなくなり。以後、後鳥羽上皇の院政が本格化します。

 

この続きはこちら。

後鳥羽上皇・幕府を支配しようとして挫折した治天の君

 

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