木村重成・大坂の陣で散った美しき若武者

木村重成は大坂の陣で活躍した武将です。
幼いころから豊臣秀頼に仕え、秀頼の信頼も厚かったといいます。武芸や礼儀作法に長けた美しい若武者だったといいます。

大坂の陣では若いながらも活躍しました。
最後は夏の陣で幕府軍と戦い討ち死にしてしまいます。

木村重成とはどんな人だったのでしょうか。

 木村 重成

生年:文禄2年(1593年)諸説あり。
没年:慶長20年5月6日(1615年)
名前:木村重成(きむら しげなり)
父:木村重茲。豊臣秀次の家臣、秀次の切腹事件でともに切腹。  
母:宮内卿局、右京大夫局という説もあります。豊臣秀頼の乳母でした。

母が秀頼の乳母ということもあり、幼いころから秀頼の小姓として仕えていました。色白で立ち振る舞いには粗暴なところがなく礼儀正しかったといいます。作法、刀、槍、馬術にたけていました。秀頼からの信頼が厚かったといいます。

元服すると3000石の知行を与えられ、豊臣家の重臣となります。

方広寺の鐘問題では、家康に内通してると疑われた片桐且元が豊臣家でいることに身の危険を感じ、高野山に出家すると言い出します。重成と秀頼は豊臣家にとどまるように説得しますが、且元は聞き入れません。秀頼の説得を聞き入れない且元に大して重成は無礼だとして怒りだします。結局、且元を追放することになるのでした。

且元が追放されたのち、徳川家康は豊臣家を討つため幕府軍を派遣。大坂冬の陣が始まります。

慶長19年(1614年)。大坂冬の陣が始まります。

今福の戦い

11月26日。大阪城北東の今福砦を佐竹義宣の部隊が攻撃。守備隊は敗退します。木村重成は応援に駆け付けなんとか互角の戦いに持ち込みますが幕府軍の前に苦戦、秀頼の命令で後藤基次が応援に駆け付けると佐竹軍を押し戻します。

重成の指揮する鉄砲隊が佐竹隊の武将・渋江政光を狙撃。佐竹隊の戦法が敗走します。佐竹義宣は上杉景勝に救援を求めます。佐竹隊を応援するために来た上杉景勝、堀尾忠晴、榊原康勝が来ると。後藤基次が撤退を決めます。重成も同意して撤退しました。

豊臣方の砦は真田丸を除いて陥落。大阪城に兵を集め迎え撃つことになりました。

真田丸・城南の戦い

12月2日以降。戦の部隊は大阪城とその周辺になりました。
木村重成は長宗我部盛親らとともに真田丸に近い八丁目口に配置しました。
幕府軍が大坂城に攻めてきたときにはこのような逸話もあります。
重成が村重が櫓に登って見てみると幕府軍の中に六文銭の旗があるのを気が付きました。そこで信繁の元へ行って聞いてみると、信繁の兄・信之の息子だろうといわれます。信繁は甥たちを打ち取るように言いました。しかし重成はこの戦いは和議になるだろうから会えるだろうと、信繁の甥たちは狙撃しないように兵に言ったということです。

その後、幕府軍と和睦しました。信繁は甥の信吉たちに会うことができたのです。

慶長19年12月20日(1614年)。和議のため秀頼の使者として茶臼山にある徳川秀忠の陣を訪れました。秀忠に謁見し、誓紙を受け取りました。このときの重成は礼儀作法がすばらしく、作法が美しかったので徳川側からも称賛されました。

慶長20年(1615年)5月。大坂夏の陣では、豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに、八尾、若江方面で戦いました。

八尾・若江の戦い

5月2日。木村重成の部隊6000が大坂城を出発。長宗我部盛親、増田盛次の部隊兵5,300も出発しました。

5月5日。今福方面を偵察し幕府軍が来ることはなさそうなので、徳川家康・秀忠の本陣を攻撃するため移動します。

5月6日。日付が変わった直後の真夜中に出発したいと考えていました。夜中の間に移動して攻撃をかけようとしたのです。しかし重成の考えとは裏腹に、兵の終結が遅れ出発が遅れます。しかし重成は途中で道を間違えて沼地で立ち往生してしまいます。兵も練度が低く思うように進軍できません。

そうしている間に藤堂高虎の部隊に発見されてしまいます。

重成が若江に到着したのは朝の5時ごろになりました。すぐに藤堂隊と先頭になりました。藤堂隊は兵の半分を失い敗走します。重成は兵を集めると食事をとらせます。家臣が「兵は疲れているのでこのまま戦えば敗戦は必至」と訴えますが、重成は戦いを続行します。重成は玉串川の西側堤上に鉄砲隊を配置して敵の襲撃に備えました。

次にやってきたのは井伊直孝の部隊でした。井伊隊は玉串川の東側堤から鉄砲で一斉射撃後、突撃してきました。この井伊隊との戦いでは重成も槍をとり戦いましたが、激闘の末に戦死しました。木村隊も壊滅したのでした。玖村重成を打ち取ったのは安藤重勝だったとも、安藤家家臣庵原朝昌に討たれたもののその功を重勝に譲ったともいわれます。

木村重成は藤堂隊を敗走に追い込み。勝った井伊勢にしても大きな損害を受けていました。健闘はしたものの圧倒的な戦力の前に消耗してしまったのでした。

重成の首は、家康のもとに送られます。重成の頭髪には香が焚きこめていました。家康は討ち死にを覚悟しての戦いに感心したといわれます。

その後、重成の首は安藤重勝が密かに彦根に持ち帰りました。安藤家の菩提寺である宗安寺に埋めたと言われます。菩提寺には木村重成の首塚が伝わります。

母・宮内京局は秀頼や茶々と共に自害しました。