百舌鳥・古市古墳群とは

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百舌鳥古墳群

「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」が世界遺産の登録がほぼ確実になりました。

百舌鳥・古市古墳群について紹介します。

百舌鳥・古市古墳群とは大阪府の堺市、羽曳野市、藤井寺市のあたりにある古墳の集まりのことです。大きく分けて百舌鳥古墳群と古市古墳群にわけられます。

世界遺産の候補となっているのは百舌鳥古墳群が23基、古市古墳群が26基。合計46基の古墳です。ちなみに古墳を数える単位は「基」です。

どの古墳が世界遺産として登録される予定なのか紹介します。

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古墳とは

3世紀から5世紀にかけて、有力な豪族たちは大きな墓を造りました。土を盛り上げた巨大な建築物のようなお墓です。大きさはさまざま。10メートル位のものから400メートルを超えるものもありました。

大きな古墳は古代中国や朝鮮半島でもありました。3世紀頃から日本でも造られはじめました。古墳の大きさや形はさまざま。時代や地域によって形にもバリエーションがあります。

百舌鳥古市古墳群には前方後円墳、帆立貝形墳、円墳、方墳の4種類の古墳が含まれます。円墳、方墳は東アジアによく見られる形です。

大和の前方後円墳

前方後円墳は日本独特の形です。3世紀ごろ大和(奈良県)で造られ始めました。大和の大王や豪族、大和と深いつながりを持つ人達が造りました。初期の前方後円墳と考えられるのは奈良県の纏向遺跡付近にある箸墓古墳です。倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓とされています。実際には大和朝廷の初期の大王の墓の可能性が高いです。

大和朝廷の勢力拡大とともに前方後円墳が日本各地に広がりました。そして5世紀ごろには河内で最大級の前方後円墳が造られます。それが仁徳天皇陵を含めた百舌鳥・古市古墳群の古墳です。

埋葬者がよくわかっていない?

いくつかの古墳には仁徳天皇陵などの皇族の名前の付いたものがあります。江戸時代から明治にかけて、伝承や日本書紀に書かれた場所を手がかりに決められたものです。現在の宮内庁でもその名前を使っています。

しかし発掘が行われていないため実際に誰が埋葬されているのか確かめられたことはありません。そのため研究者の間では地名から○○古墳という呼び方あります。仁徳天皇陵となっていても実際には別の人が埋葬されれている可能性もあります。

このページのリストでは研究者の呼称を別名として紹介しました。

百舌鳥古墳群リスト

百舌鳥古墳群があるのは大阪府堺市。地図で見るとこのあたり。

表の見方

通称(よみがな)
別名
古墳の形 長さ
その他情報

所在地:大阪府堺市

反正天皇陵古墳(はんぜいてんのうりょうこふん) 
田出井山古墳
前方後円墳 148m
仁徳天皇陵古墳(にんとくてんのうりょうこふん)
大山古墳(だいせんこふん)
前方後円墳 486m
日本最大の古墳
茶山古墳(ちゃやまこふん)
円墳 56m
大安寺山古墳(だいあんじやまこふん)
円墳 62m
永山古墳(ながやまこふん)
前方後円墳 100m
源右衛門山古墳(げんえもんやまこふん) 
円墳 34m
塚廻古墳(つかまわりこふん)
円墳 32m 
収塚古墳(おさめづかこふん)
帆立貝形墳 59m
孫太夫山古墳(まごだゆうやまこふん)
帆立貝形墳 65m 
竜佐山古墳(たつさやまこふん)
帆立貝形墳 61m 
銅亀山古墳(どうがめやまこふん)
方墳 26m
菰山塚古墳(こもやまづかこふん)
帆立貝形墳 33m
丸保山古墳(まるほやまこふん)
帆立貝形墳  87m
長塚古墳(ながつかこふん)
 帆立貝形墳  106.4m
旗塚古墳(はたづかこふん)
帆立貝形墳 57.9m
銭塚古墳(ぜにづかこふん)
 帆立貝形墳 72m
履中天皇陵古墳(りちゅうてんのうりょうこふん)
上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)
 前方後円墳 365m
日本第3位の大きさ
寺山南山古墳(てらやまみなみやまこふん) 
方墳 44.8m
七観音古墳(しちかんのんこふん)
円墳 32.5m 
いたすけ古墳(いたすけこふん)
前方後円墳 146m
善右エ門山古墳(ぜんえもんやまこふん)
方墳 28m
御廟山古墳(ごびょうやまこふん)
前方後円墳 203m
ニサンザイ古墳(にさんざいこふん)
前方後円墳 300m

 

古市古墳群リスト

古市古墳群があるのは大阪府羽曳野市、藤井寺市のあたり。
地図で見るとこのあたりです。

所在地:藤井寺市

津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)
前方後円墳 210m
仲哀天皇陵古墳(ちゅうあいてんのうりょうこふん)
岡ミサンザイ古墳(おかみさんざいこふん)
前方後円墳 245m
鉢塚古墳(はちづかこふん)
前方後円墳 60m
允恭天皇陵古墳(いんぎょうてんのうりょうこふん)
市野山古墳(いちのやまこふん)
前方後円墳 230m
仲姫命陵古墳(なかつひめのみことりょうこふん)
中津山古墳(なかつやまこふん)
前方後円墳 290m
鍋塚古墳(なべづかこふん)
方墳 63m
助太山古墳(すけたやまこふん)
方墳 36m
中山塚古墳(なかやまづかこふん)
方墳 50m
八島塚古墳(やしまづかこふん)
方墳 50m
古室山古墳(こむろやまこふん)
前方後円墳 150m 
大鳥塚古墳(おおとりづかこふん)
前方後円墳 110m

 
所在地:羽曳野市

応神天皇陵古墳(おうじんてんのうりょうこふん)
誉田御廟山古墳(ほむだごびょうやまこふん)
前方後円墳 425m
日本第2位の大きさ 
誉田丸山古墳(こんだまるやまこふん)
円墳 50m
二ツ塚古墳(ふたつづかこふん)
前方後円墳 110m 
東馬塚古墳(ひがしうまづかこふん)
方墳 23m
栗塚古墳(くりづかこふん)
方墳 43m
東山古墳(ひがしやまこふん)
方墳 57m
はざみ山古墳(はざみやまこふん)
前方後円墳 103m 
向墓山古墳(むこうはかやまこふん)
方墳 68m 
西馬塚古墳(にしうまづかこふん)
方墳 45m
白鳥陵古墳(はくちょうりょうこふん)
軽里大塚古墳
前方後円墳 200m 
ヤマトタケルの墓との伝説もある 
墓山古墳(はかやまこふん)
前方後円墳 225m 

 

所在地:藤井寺市

野中古墳(のなかこふん)
方墳 37m
浄元寺山古墳(じょうがんじやまこふん)
方墳 67m
青山古墳(あおやまこふん)
円墳 62m
峯ヶ塚古墳(みねがづかこふん)
前方後円墳 96m

 

なぜ大阪に巨大な古墳があるの?

大和(奈良県)で誕生した大和朝廷は勢力を拡大、南関東から北九州までを勢力範囲にしました。その後、朝鮮半島に進出しました。最初は鉄などの資源を求めての進出だったかもしれませんが、やがて大陸の文化や品物の輸入先として交流が深まります。百済などの援軍要請もあり、高句麗や新羅などと戦います。援軍を出すと見返りとして大陸の品物や文化が手に入りました。

大和朝廷(ヤマト政権ともいいます)は4世紀ごろまでは大和の纏向を本拠地にしていました。大王の一族は勢力範囲を分割相続。王子たちはそれぞれの土地に移りみました。5世紀の仁徳天皇のころになると海に近い難波を本拠地にしました。河内(大阪府)に活動拠点をおいたため河内王朝と呼ばれることもあります。

また雄略天皇のように大和に拠点を置いた大王にとっても河内は重要な場所でした。河内には難波津と呼ばれる港があり海外進出に便利だったからです。

大和朝廷は積極的に海外進出を行い軍事的援助や貿易で大きな富を築いた時代でした。中国に使者を送り朝鮮半島の権益を認めてもらおうと外交交渉もしました。そのため貿易の拠点、軍港、外国の使者を迎える場所として河内は重要だったのです。

巨大な古墳が造られたのものこのころです。

百舌鳥古墳群は海から見える位置にあります。現在は海岸線が埋め立てられて、海から遠くなりましたが、当時は古墳が海から見えました。古市古墳群は大阪から奈良に向かう街道から見える位置にあります。

海外の使者に対して大和の勢力の大きさを見せつけるため、海や街道から見える場所に作られたと考えられます。大きな古墳を造ったのは権威を見せるためだけではありません。巨大な古墳を作ることができる=大量の人々を動員できる=大きな軍隊が造れることになります。河内の大きな古墳には大和が大きな軍事力を持つ意味も込められたいたと考えられます。

巨大古墳の時代の終わり

しかし河内に古墳群を造った大和朝廷は雄略天皇の死後、強力な力を持った大王がいなくなり大きな古墳を造らなくなります。大王の力の衰えもあったでしょう。大陸との交流も途絶えがちになり、外国の使者に大和の勢力を見せつける必要もなくなりました。大きな古墳はいらなくなったのです。その後も陵墓はつくられますが小さな物が多くなります。

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