吉村貫一郎(よしむら かんいちろう)は新選組の一員です。
「壬生義士伝」の主人公なのでこの物語で知った人も多いと思います。
吉村貫一郎は本名は嘉村 権太郎といい。南部 盛岡の人といいます。
脱藩した後、江戸に行き新選組の隊士に応募。
鳥羽・伏見の戦いで死亡しました。
ドラマや小説とはちょっと違う、史実の吉村貫一郎について紹介します。
吉村貫一郎 とは
名 前:吉村貫一郎(よしむら かんいちろう)
本 名:嘉村 権太郎(よしむら ごんたろう)
生 年:天保10年(1839年)?
没 年:慶応4年1月6日(1868年1月30日)?
父:嘉村弓司
母:不明
妻:不明
子:不明
新選組に入隊する前の名前は嘉村権太郎といわれます。
嘉村 権太郎(吉村貫一郎)は盛岡藩(岩手県)で生まれました。
父は盛岡藩目付けの嘉村弓司(瀬兵衛、弥次兵衛)。
嘉村弓司の兄は嘉村矢柄祐尚(良右衛門、瀬平)は二百石六人扶持。
新選組に入るまで
「盛岡名人忌辰録」には「新当流」の高弟として記録されています。
盛岡にいたときから剣術に優れていたのでしょう。
文久2年(1862年)12月。軍役につき、盛岡藩重臣 遠山礼蔵に率いられて江戸に出ました。
元治元年(1864年)2月。北辰一刀流の千葉道三郎に入門しました。
慶応元年(1865年)1月。盛岡に戻るように命令が出ましたが1月16日は藩を逃げ出しました。嘉村権太郎がなぜ藩を抜けたのははわかりません。
4月5日。隊士募集のため土方歳三たちが江戸に来ます。
そこで新選組隊士募集に「吉村貫一郎」の名で応募。
4月23日。隊士募集を終えた土方歳三たちが江戸を出発。この中に吉村もいたと考えられます。
慶応元年(1865年)5月。新選組の組織を改編。1番隊~10番隊を設置。
新選組での活動
慶応元年(1865年)9月。長州再征の勅許が出ました。
慶応元年(1865年)11月4日。大目付 永井尚志の長州詰問使として近藤勇、武田観柳斎、伊東甲子太郎、山崎丞、芦谷昇、新井忠雄、尾形俊太郎、服部武雄らともに広島に向かいました。
近藤たちが京に戻った後も吉村貫一郎と山崎丞は広島に残り情報収集を行いました。
慶応元年(1865年)6月。第二次長州征討がはじまりました。
吉村はこの戦いの情報を集めました。慶応2年6月14日に小瀬川口の戦いで彦根藩と高田藩が敗北したことなどを記録しています。この間も越前藩 奥村坦蔵などと面会しています。
吉村は9月ごろまでには京都に戻ったようです。
慶応2年(1866年)9月12日。三条制札事件が発生。制札を引き抜こうとする土佐藩士と新選組隊士が戦闘になりました。
9月19日。事件を穏便に治めるため土佐藩留守居役 荒尾騰作は祇園栂尾亭に会津藩、新選組の者を呼んで会合がひらかれ和解しました。吉村もこのときに出席しています。
慶応3年(1867年)6月15日。新選組は西本願寺を屯所にしていましたが、不動堂村への移転が決まりました。このとき吉村と山崎が西本願寺と交渉したました。
6月23日付け。新選組が幕臣にとりたてられ。吉村は「見廻組並」になりました。
10月14日。大政奉還。
大政奉還の後、吉村は薩摩藩家老 小松帯刀の動向を探っていました。
このころまでに伊東甲子太郎たちが新選組を離脱。御陵衛士になっていました。新選組は伊東たちが近藤勇の暗殺を企んでいると判断。伊藤たちの殺害を決定します。
11月18日。近藤勇は伊東を呼び出して宴会を開きました。吉村と山崎たちは伊東たちに酒を飲ませて酔わせる役目をしたといいます。その後、他の隊士たちが伊東甲子太郎を殺害しました
12月7日。天満屋事件。坂本龍馬暗殺に激怒した海援隊は紀州藩 三浦休太郎を犯人だと思って狙っていました。そのため新選組に三浦休太郎の護衛の任務が与えられます。このとき吉村は護衛役についていたといいますが。永倉新八の「浪士文久報国記事」には吉村の名前はありません。
吉村も大坂に行っていたのかもしれませんが、海援隊との戦闘があったその場にはいなかったのかもしれません。
大阪天満宮に旅宿していた新選組が伏見奉行所に移動するとき。吉村と山崎はその費用として百両を受け取りました。
鳥羽・伏見の戦い
慶応4年(1868年)1月3日。鳥羽・伏見の戦いが勃発。
新選組は伏見奉行所に立て籠もり、御香宮に本陣を置く薩摩軍と戦いました。
その後、新選組は敗走。
1月6日。淀の戦闘で吉村貫一郎は戦死しました。
具体的な場所や時刻、死亡した時の状況は不明です。
御香宮の戊辰東軍戦死者霊名簿には「正月六日淀ニ於テ戦死 諸士調役 嘉村権太郎」とあります。
「戦亡殉難志士人名録」には「正月3日から6日で行われた、山城、鳥羽、八幡、山崎の戦いで戦死」とあります。
嘉村家の過去帳には「明治3年1月15日 嘉村権太郎 摂州伏見戦死 享年31」とあります。
吉村貫一郎のイメージの変化
一般に知られる吉村像の元ネタは壬生浪士始末記
また西本願寺に仕える尊王攘夷派の西村兼文は「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」に次のように書き残しています。
吉村は戦いの後、大坂の網島にあった南部藩の仮宅に行った。吉村はそこの留守居(名前不明)とは知り合いだったので「これまでは幕府の為に働いていたが、これからは勤王のために働くので匿って欲しいと頼んだどころ。ところが留守居役は「脱藩して新選組に入り幕府のために働いたのに、今更勤王のために尽すとは何事か」と激怒。「幕府が衰えたからといって寝返るのは不義なので割腹せよ」と言うと、吉村は切腹したということです。
「壬生浪士始末記」は新選組研究ではよく出てくる資料なのですが。細かい記述がある反面、「新撰組始末記」にしか載ってない事柄も多く、取材記録のようでもあり小説のようでもあるのでどこまでが本当がよくわかりません。
ただし。嘉村家の過去帳では吉村(嘉村)が死亡したのは1月6日ではなく、1月15日。「摂州伏見戦死」となっているのをどう解釈するかで最後の様子が変わってきます。
伏見の戦闘で行方不明になって死亡判定され。そのあと大坂に落ち延びて死亡したのかもしれません。
子母澤寛の小説「新選組物語」で脚色
「壬生浪士始末記」を元ネタに子母澤寛が小説「新選組物語」を発表。
ここで
盛岡藩の下級武士で妻子五人があり貧しかった。
大人しい性格で剣術が得意。
どうしても食えないので脱藩して大坂に向かい家族に仕送りをしていた。
大坂で新選組に入隊。
鳥羽・伏見の戦いの後。仲間とはぐれて大坂の盛岡藩仮屋敷に逃げ込み。留守居役の大野次郎右衛門に匿ってくれというもの拒否され、屋敷内で切腹。
吉村が切腹した部屋には小刀と二分金十枚が置かれてあった。
と脚色されました。
つまり。
吉村貫一郎の妻子は架空の存在。吉村嘉一郎も架空です。
大野次郎右衛門も大野千秋も実在しない架空の存在です。
大野次郎右衛門のモデル
大野次郎右衛門が架空だったとすればモデルになった人物はいたのでしょうか?
吉村と関わりのある人物は見当たりません。
でも藩内での立場を考えればあえて大野次郎右衛門のモデルをあげるとすれば。盛岡藩家老の楢山佐渡(ならやま さど)が一番近いでしょか。
楢山佐渡はもともと穏健派でした。伏見鳥羽の戦いの後、京都で薩摩・長州の要人と会って、彼らが本当に新しい世の中を作れるのか不安になり。(薩長は勤王といいながらやってることは賊と変わらない。薩長が徳川に代わるだけでは?と思ったらしい)。そこで奥羽列藩同盟に参加を決めたといわれます。
盛岡藩は新政府に恭順するか奥羽列藩同盟に加わるかで意見が別れていましたが。楢山佐渡は奥羽列藩同盟に参加をさせることで藩内の意見をまとめました。戊辰戦争中は盛岡藩の指揮をとり新政府軍と戦い。戦後は敗戦の責任をとって斬首になりました。
幻の作品・水木しげる「幕末の親父」
この内容を元に。水木しげるが漫画「幕末の親父」を執筆。
妖怪漫画でおなじみの水木しげるは新選組の漫画も描いています。その中に吉村貫一郎のエピソードがあります。「新選組物語」の内容をアレンジしたものです。
現在は「水木しげる漫画大全集・星をつかみそこねる男」に収録されています。
吉村貫一郎を世に広めた浅田次郎「壬生義士伝」
浅田次郎が「新選組物語」の内容をもとに小説「壬生義士伝」を創作。
その後、TVドラマ・映画・漫画と様々な媒体で公開されました。
この「壬生義士伝」のヒットで吉村貫一郎が世の中に知られるようになりました。
「壬生義士伝」では「新選組物語」に比べるとさらに人情噺的要素が強められ
当然、ドラマの重要な要素になっている吉村貫一郎の家族の物語。
大野次郎右衛門と吉村貫一郎が幼なじみだった。
吉村貫一郎死後の大野次郎右衛門と家族の没落の話も
すべて創作です。
吉村貫一郎の妻子の記録はありませんし、大野次郎右衛門も架空の存在だからです。
吉村貫一郎は31歳で死亡しているので、戦いに出られるほど成長した息子がいたかどうかは不明です。
わかっているのは
盛岡藩の脱藩武士。
新当流の高弟。北辰一刀流を学んでいる。
慶応元年(1865年)新選組に入隊。
主に山崎たちとともに裏方の仕事をしていた。
鳥羽・伏見の戦いで死亡(戦場なのか大坂の屋敷なのかは不明)したこと。
くらいなのです。
「壬生義士伝」は大変面白く、私も大好きなのですが。ドラマと史実は違う。ということも頭に入れておきたいです。
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