オスマン帝国の歴史1 初代オスマンから6代ムラト2世の時代まで

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オスマン帝国は13世紀末から20世紀まで続きました。日本でいうと鎌倉時代から大正時代まで続いたのです。

長い歴史の中で政治の仕組みが変わることはありましたが、オスマン王家を中心にした国ということはかわりません。

最近はドラマや漫画の影響でオスマン帝国への関心も集まっています。でも日本ではあまり馴染みがありません。でもドラマの背景には必ず歴史があります。歴史を知っていればこういうことをしているのはこういう理由があるから。という発見も出てきます。

今回はオスマン帝国の始まりから6代ムラト1世の時代までを紹介します。

オスマンの国が帝国と言えるほど巨大ではなく、中東の小国家だった時代のお話です。

オスマン帝国ができるまで

オスマン帝国が誕生したのは13世紀末から14世紀はじめ。

長い歴史をもつオスマン帝国ですが始まりはよくわかっていません。詳しい資料が残っていないのです。

アナトリア半島(現在のトルコ共和国のアジア側の地域)は11世紀までビザンティン帝国(東ローマ帝国)が支配していました。

しかしイスラム勢力の大セルジューク朝がやってきて占領されました。大セルジューク朝は衰退しますが、アナトリア半島を支配したのはセルジューク朝からわかれたルーム・セルジューク朝でした。

13世紀前半。アナトリアにモンゴル帝国が攻めてきてルーム・セルジューク朝は敗北。モンゴル帝国の属国になります。

ルーム・セルジューク朝の力は衰え各地でトルコ系民族(テュルク人)が小さな国(侯国)をつくりました。

アナトリアの戦国時代です。

そのような小さな国と比べてもひときわ小さな集団がいました。

それが後にオスマン国の初代国王となるオスマンの一族です。

オスマン侯国の誕生。

13世紀の終わりごろ。トルコ系遊牧民族を率いるオスマンはアナトリアの北西部ソユト村を中心に活動をはじめました。もともとオスマンの父がソユトという小さな村の領主でした。オスマンはさらに勢力を拡大。村の領主ではなく「君侯国」とよべるほどに成長しました。オスマン侯国の誕生です。

オスマン帝国時代に作られた歴史書にはイスラム暦699年(西暦1298年)に建国されたと書かれています。イスラム社会では世紀の分かれ目には革命的な出来事が起こる。という考えがあったのであえてイスラム暦699年にしたようです。実際に西暦1298年に建国したかどうかはわかりません。でもこのあたりだっただろうと考えられています。

 

By wikipedeia Khateeb88 – Own work, CC BY-SA 3.0,

 

1302年にはオスマン率いる遊牧民部隊はマルマラ海に近いバフェウスではビザンティン帝国と戦い勝つほどに大きくなっていました。西洋の歴史書にオスマンの名前が出てくるのが1302年です。少なくともオスマンの勢力は1302年にはビザンティン帝国と戦えるほど大きくなっていた事がわかります。

1323年ごろオスマンが死去。息子のオルハンがあとを継ぎました。

2代国王オルハンの時代。国としての基礎ができる

オルハンの時代には周辺のムスリムの王朝の制度を取り入れました。

ビザンティン帝国の都市ブルサを占領したオルハンは首都をブルサに移転。ここを中心に国作りを始めます。国のトップ・スルタンとスルタンを補佐する宰相の制度ができあがります。モスクや学校を建設。国としての仕組みができあがっていきました。

ビザンティン帝国で王位継承争いが起こり、皇族のヨハネスがオルハンに助けを求めてきました。ヨハネスは娘のテオドラをオルハンと結婚させました。オルハンの活躍でヨハネスは皇帝になりました。オルハンとしてもダーダネルス海峡海峡を渡りバルカン半島側に拠点を造るよい機会になりました。

3代国王ムラト1世:第2の都エディルネを手に入れるも外国人に暗殺される

オルハンの死後、王になったのは息子のムラトでした。

1360年ごろにはバルカン半島のハドノアポリス(エディルネ)を占領。オスマン国ではエディルネと呼ばれます。オスマン侯国第二の首都にします。

オスマン国はアナトリア半島とバルカン半島の両方に領地をもっていました。アナトリア半島側の首都がブルサ。バルカン半島側の首都がエディルネと使い分けました。

ムラト1世はバルカン半島では戦いで町を占領。次々に領土を広げました。バルカン半島はキリスト教国の国が相手だったので「イスラムのための聖戦」といえば戦いの名分はたちました。

しかしアナトリア半島側にはイスラム教の国が多かったので政略結婚を使って勢力を広げました。

オスマン国はもともと遊牧民族なので強力な騎馬軍団をもっていました。でも城攻めでは騎馬よりも歩兵が活躍できます。それまでも歩兵部隊はありましたが大きな部隊ではありません。ムラト1世は常備歩兵軍団(イエニチェリ)を造りました。イエニチェリはデヴシルメ(徴用)で集められた兵士で編成されていました。

国を発展させたムラト1世でしたが、最後はあっけないものでした。

ムラト1世に投降すると言って近づいたセルビア人貴族に刺殺されてしまったのです。

ムラト1世の暗殺以後。オスマン国では外国の使節は両腕をつかまれたまま国王に会う決まりになりました。オスマン帝国外伝でもスレイマンに会う外国の使節が兵士に腕を掴まれているのはこのためです。

4代バヤズィト1世・ティムールの侵略を受ける

ムラト1世の死後、君主になったのは息子のバヤズィトでした。ムラト1世の息子にはヤークプもいましたが、何らかの理由で排除されてました。暗殺されたとも目を潰されたともいわれます。

バヤズィト1世にはアナトリア半島でも積極的に遠征を行って領土を広げました。このころになるとオスマン侯国の力は強かったので、周辺のイスラム教国に遠慮する必要はなくなったのです。アナトリアの君侯国をつぎつぎと破り領土にしてアナトリア半島を統一しました。

バヤズィット1世には3人の正妻がいました。イスラムの法では4人まで正妻を持つことができるのです(側女は何人いてもいい)。正妻はすべて政略結婚のためにおこないました。

悪女デスピナ

4人目の正妻としてセルビアの王女デスピナと結婚しました。この時代、キリスト教国との政略結婚は珍しくありませんでした。デスピナはイスラム教には改宗せず、キリスト教徒のままハレムで暮らしました。そのため王宮ではキリスト教風の習慣が流行りました。そのためイスラムの歴史家はデスピナを悪女と書きます。でもデスピナが

バヤズイットはビザンチン帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲しました。

ティムールの侵略を受ける

ところがティムールが責めてきました。ティムールはモンゴル帝国が分裂したもののひとつ。このころにはイスラム教に改宗していました。ティムールはアナトリアの諸侯を裏切らせて味方につけました。アナトリアの諸侯たちはイスラム教徒です。キリスト教国を味方にしたバヤズィットを見限ってイスラム教の大国に味方してしまったのです。

味方を失ったバヤズイットは王子ムスタファとともにティムールに捉えられ死亡しました。

5代メフメト1世:10年続いた空位時代

バヤズィットにはムスタファ以外にも4人の王子達がいまいた。4人は逃げ延びて無事でした。

生き残った4人の王子たちの間で王の座をめぐって争いがはじまりました。争いは10年間続き最終的にメフメトが即位しました。

即位した後も兄弟のムスタファが反乱を起こしました。ティムールにとらわれていたムスタファがティムールの助けを借りて王位を要求したと言われています。オスマン帝国の歴史書には偽ムスタファと書かれています。この反乱を鎮圧できないままメフメトはこの世を去りました。

6代ムラト2世・オスマン侯国の復興

メフメト2世のあとを付いだのは息子のムラトでした。

ところがムラト2世は即位直後から王位争いに巻き込まれます。

反乱を続けている偽ムスタファに加えて、弟ムスタファまでビザンチン皇帝の助けを借りて王位を主張しました。

メフメト2世は離反した諸侯をまとめると、偽ムスタファを捉えて処刑。コンスタンティノポリスを攻めて弟ムスタファを捉え処刑しました。そして他の弟たちの目もつぶして王位争いがしないようにしました。オスマン帝国では兄弟同士の王位争いは熾烈でした。

ムラト2世の時代、ティムールに奪われる以前の領土を取り戻します。

ムラト2世には跡継ぎとして期待する王子アラエッティンがいまいた。しかしアラエッティンは急死します。何者かに暗殺されたともいわれます。

この事件でショックを受けたのかムラト2世は残された王子メフメトに譲位しました。ムラト2世は譲位した後、マニサに移り敵対するカラマン侯国ににらみをきかせました。そのためメフメトの王位を安泰にするため譲位したのではないかともいわれます。

次はメフメト2世以降を紹介します。

 

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