オスマン帝国の歴史2 7代メフメト2世から8代バヤズィット2世の時代まで

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オスマン帝国の歴史を紹介します。
初代オスマンが築いたオスマン国は領土を拡大していましたが、まだ中東にいくつかある有力な国家のひとつに過ぎません。そしていよいよメフメト2世の時代にイスタンブルを征服。ビザンティン帝国を滅ぼしました。オスマンの国は帝国といえる規模に拡大します。

7代メフメト2世からバヤズィット2世の時代を紹介します。

 

7代メフメト2世

王になったメフメト2世はわずか12歳。政治は大宰相チャンダル達がおこないました。

ハンガリーとワラキアが十字軍を編成してオスマン侯国に戦いを挑んできました。幼いメフメト2世に変わり先代の王ムラト2世が軍を率いて十字軍を撃退します。宰相や兵たちはムラト2世に王に戻るように要請しましたが。ムラト2世は断ります。しかしイエニチェリの反乱も起こります。反乱はおさめましたが、メフメト2世では治められないと判断したムラト2世は王にもどりました。メフメトは王太子になりました。

1451年。ムラト2世が死去。メフメトは再び即位しました。

征服王メフメト2世・大帝国の始まり

2回めに即位したメフメト2世は王位争いを防ぐため兄弟を処刑しました。「兄弟殺し」の習慣の始まりです。

コンスタンティノポリスの征服

メフメト2世はコンスタンティノポリスの攻略にとりかかります。大宰相チャンダルは反対していました。しかし王子時代の部下を重役につけて老宰相から力をうばいました。

1453年。コンスタンティノポリスは陥落。後に征服王と言われるメフメト2世にとっても楽な戦いではありませんでした。ここに1000年近く続いた東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は滅びました。メフメト2世はここを新しい首都にしました。コンスタンティノポリスは徐々にイスタンブルと呼ばれるようになります。

メフメト2世は争いで荒れ果てたイスタンブルを復興しました。市街地の中心近くにエスキサライ(旧宮殿)を建て当面の住まいにしました。その後、半島の丘にイェニサライ(新宮殿)を建設。新しい宮殿がトプカプ宮殿です。

バルカン半島での戦い

メフメト2世はバルカン半島とアナトリア半島の両方で領土を広げます。

1456年。ベオグラードを攻めますが攻略に失敗。しかしベオグラードより東はオスマン帝国のものになりました。

抵抗していたアルバニアも降伏。

串刺し公との戦い

さらにルーマニアにも攻め込みました。しかしここでワラキア公ヴラド3世の猛烈な抵抗にあって断念。ヴラド3世は捕虜を串刺しにして見せしめにする残酷さでオスマン兵の戦意を無くしたといいます。そのため串刺し公とよばれます。ヴラド3世は吸血鬼ドラキュラ伯爵のモデルのひとつになりました。

力攻めでは攻略できないと考えたメフメト2世は外交を駆使します。ルーマニアの貴族を仲間割れさせブラド3世を幽閉させました。強い領主を失ったワラキア侯国はオスマン帝国の属国になりました。

アナトリア半島の統一

メフメト2世はアナトリア半島でも領土を広げました。まずトレビゾンド帝国に遠征を行い滅亡させ。トルコ系遊牧民が作った白羊朝(アク・コユンル)と戦います。白羊朝にはオスマン帝国に不満をもつ君侯やベネツィアが味方したため厳しい戦いになりました。メフメト2世はウズン・ハンとの直接対決を行い大打撃を与えます。ウズン・ハンには逃げられたものの白羊朝はオスマン帝国に対抗する力は残っていませんでした。

その後も1474年にはクリミア・ハン国を服従させました。チンギス・ハンの子孫を名乗る彼らは強力な騎兵をもっていました。以後、オスマン帝国の忠実な弟分として協力することになります。

メフメト2世はティムールに征服される前よりも領土を広げました。いくつもの属国を従える「帝国」となったのです。

1481年。遠征途中で死亡。多くの領土を獲得したメフメト2世は人々から「征服王」の名で呼ばれます。

8代バヤズィト2世・聖者王

メフメト2世には2人の皇子がいました。バヤズイトとジェムでした。即位したのはバヤズィットでした。ジェムは反乱をおこしましたが鎮圧され処刑されます。

バヤズィット時代には大きな遠征を行いませんでした。バヤズィット2世は戦よりも文化を好む王でした。メフメト時代に多くの遠征を行ったので財政的に厳しかったともいわれます。

オスマン帝国の本格的な歴史書が書かれたのもこの時代です。

イスラム教をあまり信仰せず、キリスト教文化に深い関心をもっていたメフメト2世と違いバヤズィト2世は熱心なイスラム教徒でした。

安定した国内政治を行っていたバヤズィットでしたが。イランではサフアァヴィー王朝ができていました。イスラムの国ですが、オスマン帝国がスンニー派ですが、サフアァヴィー朝はシーア派でした。以後、200年にわたって戦いを続けることになります。サフアァヴィー朝はアナトリアにも勢力を広めようとしていました。

しかしバヤズィット2世はサファヴィー朝にも興味を示しませんでした。王子のセリムは父の態度が不満でした。セリムが知事を務めるトラヴゾンはサファビー朝に近い場所にありました。そのためサファビー朝の驚異を最も感じていたのです。

反乱

サファビー朝に先導されたシーア派がオスマン帝国内で反乱を起こしました。

兄のアフメドたちは反乱の鎮圧に手間取りました。

国境を超えて侵入したサフアァヴィー朝を撃退し、逆に襲撃したこともありました。しかしメフメト2世はセリムの行いを褒めるどころか、事を荒立てたと叱りました。怒ったセリムは息子のスレイマンが赴任しているクリミアのカッファに移動してしまいました。さらにイスタンブルに入ろうとしましたが、バヤズィトはセリムを追い返しました。

セリムがイスタンブルに向かったことを知ったアフメトはイスタンブルに向かおうとしました。ボスフォラス海峡を渡ろうとするアフメトを海軍提督ボスタンジュバシュ・イスケンデル・パシャが止めました。ボスタンジュバシュはセリムに味方したのです。さらにコルクトがイスタンブルに入ろうとしましたがイエニチェリに拒否されます。

イエニチェリが支持したのはセリムでした。こうなるとバヤズィットも止められません。兵士たちの支持を得たセリムはイスタンブルに入りセリムはバヤズィットと退位させました。

1512年。セリム1世が即位しました。その後、隠居先に向かったバヤズィットですが急死しました。

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